野村玄良・ささ玄のブログ版『日本語の意味の解』・第①回 電子本の公開 はじめに

f:id:sasagen:20200912051552j:plain

 

『日本語の意味の解』

 

 まえがき

 西欧の心身二元論においては、思考やカテゴリー化などの概念形成は心のみが行い、「身体」はそれに従属する低いレベルの価値しか与えられてはいなかった。しかしながら思考や概念形成に働く身体の重要性が認識されて以来、心と身体が対立するという図式だけでは捉えられない「因縁律」が存在する。
 カテゴリー化は概念形成にはたらく認知の様式であるが、和語における言語の身体化された概念は次のカテゴリーに分類することが出来る。
 つまり身体の部位そのものの形態と、それが時間の中で参入される要素が、因縁律を発生させ、因果律の中で新たな条件が動的な方向性を持って連結派生し、ラングの規制枠の中でパロールの力(想像力)によって新たな概念を構造化するのだ。
 つまり和語においては、単語レベル(動詞・名詞)で穏喩・隠喩が形成され、階層的に上位階の「節・文」にリンクしながら多様性を持ってイベントを遂げているのである。問題は単語の形成の「解」こそが情報工学の基礎として明確に把促しなければならない。高度な人工知能の必要条件となるものは「意味の形成規則の解」である。


 遥かな石器時代に獣を追って山野を駆け巡った我々の先祖達が伝え残した言語創生の原理は、太古のままに言語素子である「素語=意味の弁別体」として単語の中に内在されている。
 彼らの人間学的認識が紡ぎ出した「意味要素の核」が、どの部分に、祖先のメッセージとして、どのような言葉の奥深くに刻印されているのか。
 創世期における日本語の構造化の軌跡を辿る唯一の方法は、日本語のあらゆる言語データーに対して部分的ではなく総括的に、言語の本質解明のための新たな原理手法を用いて、思弁の形式化ではなくデーターサイエンスとして、科学的な要素還元主義で解析をすること以外に方法は存在しないのだ。
 
 問題はその手法に全てが依存している。新しい手法は、新しい発想と「言語成立の原理」の発見が必要である。「語の意味」を不問にしたままで、昏睡を貪り続ける時代遅れの言語学を根底から揺さぶって、コペルニクス的転換論で再構築を果たさねばならないのである。
 「語」に何故意味が存在するのか。この「何故」の問いを忘れた学問は存在する意味を失っている。遺伝子工学は「何故遺伝が子に伝わるのか」を細胞の中に存在する「遺伝因子」の構造と働きを明らかにした。遺伝子は情報を伝える因子である。言語の因子を明らかにしなければ情報工学は進化しない。

 実存哲学はヨーロッパ発の哲理ではあるが、インドの大乗思想と、これを受けた空海の「真言思想」こそが西欧の実存の哲理より数百年も前に高密度に展開した東洋の【存在のロゴス】であった
 ロゴスとは「言語科学=意味の定立・意味分析の定立」のことで理知的思考によって得られた世界の存在に対する無矛盾の科学分析の思惟のことである。「意味の記号」をネットですくい取る「インドラの珠網」という「言語体系のネット=曼荼羅」思考こそが東洋のロゴスであり世界の実存を極める哲理である。
 意義と意味の定義を可能とする世界は地平には存在しない。言語の地下階層構造がわからないと意味の定義ができないのである。
 言語の使い方をどのように観察してみたところで、「語の成立」のメカニズムは把促できない。言語使用者の使う言語は「地平」の「述語」という目に見える世界に帰属している。言語の成立、意味の成立の原理大系は「地下階層」の目には見えない「深層部」に「秘蔵」されている。
 空海はこれを「秘密の言語・密言・真言」などと呼称した。これは空海の著書「吽字義.うんじぎ」・「声字実相義.しょうじじっそうぎ」・「即身成仏義」に書かれている。
 
 秘密の場所に隠されていることを「蔵密.ぞうみつ」と言う。その秘密の場所は地平ではなく地下の奥深くに「即身成仏(実存を抽象・アナロゴンのこと)」の姿で鎮座している。それを図式化したものが胎蔵界曼荼羅金剛界曼荼羅である。「即身」とは「身体そのもの」という究極の存在(エンス)のことで「基本認識との出会い」を実現する「実存」のことである。
「ヤ行・ワ行」と古代の乙類の「コソトノモヨロ・キヒミケヘメ」の全てが「母音調和」及び「前母音脱落」語で、その内容は変更されることなく、今日も姿を隠して使われている。この基本事実に対する学的探求が全く行わなかったことによる弊害と損失は、計り知れないものがある。つまり言語と言うものは、その国の巨大な歴史的文化構造体の基礎基盤であるからだ。
 国語学・日本語学は明治以降、欧州言語学ソシュールの誤った記号論に幻惑されて今日に至っている。
 江戸時代に勃興した科学的で正統的な国学探求の流れは維新以降、顧みられることなく、欧米文化の模倣に明け暮れ、明治の後半において大きな崩れを見せた。昭和の敗戦に至って、あらゆるものが疲弊し自尊心をなかば喪失しかけた日本は、伝統文化維持という国の主体性を見失って、遥かな先祖が築き上げた国語体を自らの手で毀損させてしまった。

 外来語の入らない伝統的な日本語の「和語」の特徴は、単体の母音は常に語頭に立ち語中や語尾には数例を除いて、決して使われることはない。この法則は非常に優れた思索と経験からから生まれたもので、混雑を排除する制御機能であり、音声を明確化する音節規定の叡智であった。少し離れた場所でも意味が理解し合える仕組みを構築しているのである。
 人間は世界を解釈する主体『ア・吾』として存在する。人間が他の動物と根本的に異なるところは、身体の周辺を認知し認識することから出発し、やがて周辺の事象から敷延して天空に至る世界像を形成する為に,その身体性と人間学的認識に基づく経験の集積を特定の意味概念として記号化したところにある。人体というコスモスが宇宙の巨大コスモスと同位性を持ち、階層構造を組みたてて一体化している。
 南方熊楠エコロジーの言葉を日本ではじめて使った科学者であり思想家であった。東洋の一元思想である真言密教の哲理を、西洋の二値的思考で分析的に捉え、さらに一元的に捉え直す思考の再編成を曼荼羅の表徴する「一切智」の哲理と理法で行っている。あらゆる次元のコスモスが、「認識」の中に存在することを、言語生成の哲理として空海が抽出した真言の「真実の言語」の波動を、この東洋の科学者は自ら身体で受けとめて理解しているのである。

 意味は意味付け行為によって発生する。意味は静的な事象ばかりではなく事態が推移する状況の中でもイベントスキーマとして概念化し、派生因子を持ったスキーマ―の鋳型として身体性を持つ記号に閉じ込められる。
「ア」は存在する自分自身の総体を「ア:a・吾」の母音音節で表徴したものである。「ア」は自称の人代名詞「吾・ア」から「アル」「アク」「アム」・「アカ」「アキ」アク」:「アサ」「アシ」「アス」「アセ」「アナ」「アニ」「アネ」:「アノ」「アレ」「アソコ」:アチラ」「アナタ」:「アキラカ」「アタタメル」に展開されている。「ア」の覚醒という「認識」から「ア・吾」を機軸にして言葉を階層的に構築して積み上げている。
 二音節結合が基本形になっている和語独自の名詞と動詞の構造は、CV型開音節の音節結合によって、意味概念が構造化されている。だから二音節語は二個の意味の弁別体が結合と言う意味の構造化と言う概念形成原理を明確に示しており要素還元的に意味を分解し更に再構築を保証するのである。

 この意味構築の法則は、父と母の結びから子供が誕生するという、生命体増殖原理からの学習であると考えられる。この結合のシステムの認識が言語構築の基本的な法則性に関与していることは、あらゆるレベル単位の言語記号を観察しても、その接合と融合によってのみ言語が構造化されると言う基本原理があるからだ。日本語はこの結合された語彙と語彙を「の」で「乗せ・伸せる」のである。
 ………この岡の、桜の枝の、下土の、草葉の先の、一しづく………と、名詞を助詞「の」で繋げるだけで情景と対象を描き出すことが可能な言語である。
 言語は部分と部分の結合と融合により新たな派生因子を生産し、新しい付加的な要素を自己増殖しながら全体を構築する。和語においては既に単音節の「素語」自体に「イベントスキーマ」としての動的で派生的な膠着志向因子が存在し、「カル現象」と言う有機的な概念連鎖現象(同音異義語の誕生)が行なわれる。(カル現象・注)
 全体である水は、酸素と水素の原子の結合体であるが、部分である元素が存在しなければ水の存在はあり得ず、また水を説明することも出来ない。
 言語内における元素的な存在は「形態素=単語」ではなく、単語を構成する単音節のスキーマ化された「形態素子=素語」で、和語の音素配列規則とそのネットワークがどのようなカテゴリーを形成し、またそのカテゴリー間の結合原理が、どのような言語組織を構築するのかを説明できなければ、言語の全体を説明することは出来ないし、「語とは何か」の基本説明すらも出来なくなるのである。

 言語の発生は「身体語」の特定化、つまり身体の部位や身体が知覚する感覚器官が基底的な概念を形成して、これが「言語の核」となり、特定した音韻(狭義の)に「意味」が貼りつけられて、「意味素」である「言語の核=素語」が形成され、曼荼羅図の「核分裂」のような爆発が発生して言葉が開始されたことを強く暗示している。言葉は徐々に時間を掛けて創られてきたものではない。一瞬のうちにトップダウンが行われたと考えなければ動詞と名詞と助詞が紡ぎ出す意味とテンスと局面の精緻な変化機能を説明することは絶対に出来ないからだ。

 先進諸国の近未来の文化の中心に据えるべきものは、言語を扱えない数学ではなく、「言語科学哲学」でなければならない。
 現在の人工知能は、人間が設定した枠組みの中を超えることはできない、いわば人工知能設計者の脳の働きと質的な「世界認識」の総合能力の限界を超えることはできないという制約に支配されている。応用・運用は条件の組み合わせで出来るが、人間の着想は因果律を超えた「因縁律」という予測不能の「何か=サムスィング」の未知なる条件参入と言う偶発的な「出会い」に依ってしか「起縁・起想」は起こらない。
 ここに奇想天外と思えるような万葉集の歌がある。

 歌の真意の「解」を」求めるパズルを出したい。つまり「言語の解・カイ」とは何かという課題が歌の向こう側に隠れている。

 万葉集・巻七の 7・7・5・7・7の句で、7・7で始まる非常に珍しいこの歌には、恐しい秘密が「日本語の基本規則」を使って巧妙に隠されている。一体何をこの歌は言おうとしているのか。

1218 黒牛乃海    紅丹穂経    百礒城乃  大宮人四    朝入為良霜
くろうしのうみ くれなゐにほふ ももしきの おほみやひとし あさりすらしも

 これまでの注釈『黒牛の海が、紅に輝いている、(ももしきの)大宮人が、漁をしているらしい』
 
 1.くれなゐにほふ、とはいかなる意味か。
 2.大宮人が、漁をすると、何故に紅色に海が輝くのか。
 3.ありえない情景が歌われているこの歌は、一体何を言わんとしているのか。
 4.黒牛の海などという海はどこにも記録がない。奇っ怪な7句の固有名詞を頭に置く理由を述べよ。

 ■この質問は、誰もが知りたい「不可解な歌の意味」の構成項目を並べたものである。
 ■この歌に対する上記の質問に「人工知能」は正しい回答が出来るか。

 ■筆者の素語理論による解答は下記である。ご一読賜り、ご批判を得たい。

 kurousinoumi ⇒二箇所の母音連続の 前母音 /o/ を脱落させると 「kurusinumi (クル・シヌ・ミ)苦る・死ぬ・身」と強烈な「悶絶寸前の身体」の意味内容の言葉が浮かび上がる。この歌は、明らかに恨みを込めた隠喩の歌で、朝廷の役人共の「大宮人」を心から憎んだ「裏読みの歌」である。
 
 くろうしのうみ= 苦る・死ぬ・身の名前の海。紅の枕詞。血の海・苦しみの海の意。
 くれないにほふ=隠喩で「真っ赤な血の匂い」がするその海で、
 ももしきの大宮人し=大勢で組織化された官僚どもが、
 あさりすらしも=漁・あさりであるが、「あ・自分」+「さり・去り」=体を失い、死ぬ意味を籠めて、「死にかかっているらしい」。

 裏読みの通訳

 苦しんで死ぬ身、と言う名前の真っ赤な血の匂いがするその海で、大勢の都の役人共が、今 死にかかっているらしい。

 この歌は、5句で始まるべき歌が7で始まる。この奇っ怪な歌が万葉集に取り込まれている理由は、時代背景に原因がある。平城京の遷都後の、貧困に苦しみ疲弊する民衆の怒りの歌である。
 ◆人工知能が「人間のシタゴコロ=隠喩=悟性」を持ち得ることが出来るか。

 素語理論はこの問題に明確な対応の仕方を提示する。即ち素語分析哲学「言語実存科学」の新しい『素語理論』の提唱である。