『日本語の意味の解』”第6回 ”空海が唱えた三密の「心・口・意」の洞察”

思考と着想

 4-1 規則から法則へ 

 科学においても、産業においても、言葉の学問においても保守化と言うマンネリが始まると、やがてその世界は衰微へ向かい始める。この停滞を防ぐには頭の切り替えが必要となる。
 思考方法の何処をどの様に切り変えるのか。視点と視座を変えることにより思考法が変わる。もしそうだとするなら「対象を外から視る世界」ということになり、目の位置の問題になる。果たして外から見る角度を変えるだけで十分か。
 ここで最初に、人間の思考と行動の関係を考えてみよう。一般に、人間が行動しているときは思考が途切れたり、または希薄となる。行動が停止すると今度は思考が活発に行われる。人は行動するために考える。全てがうまくいっているときは何も考える必要がないからだ。
 頭を切り替えたいときは、思考の筋道に働く因果律に、何らかの変化をもたらす新たな着想という付加的条件を投企する必要がある。
 人生が変転し明暗の分かれる一生最大の縁起の場は、男女の出会いの場であろう。我が国の封建時代においては、身分制度や生活風習といった社会規範の作用によって、恋愛の自由度が制約されたので縁組・縁談が重要であった。この縁結びには仲人を立て、その見立てと引合わせの力の範囲内において、かなり有効に機能したのであった。
 「縁談」の字は「談話」を伴っており、言葉が縁を立ち上げることを意味している。二人だけの合意の言葉で縁起するときもあるし第三者が参入して話をまとめる場もある。人生色々で、縁起縁談から因縁のつぼみが取り付き、花開く場合もあるし、何も起こらない時もある。しかし、結ばれたからといって喜ぶのは式典の時だけで、結果が出てからでしか評価できないところに人生の苦悩がある。
 科学のコンテクストではこれを因果律と言う。原因と結果との関係形式は、Aと言う条件の下にBという現象が必ず起きる。AがあってBが起こらないことはない。この形式を方法論として取り込んだのがニュートンの「プリンピキア」で、そこには規則という形で、自然現象に「整合的な原因」を見付けるべきであるとの条件と、その際に「同一の原因に対して同一の結果」が生じると考えるべきである事の二点の条件具備が指摘される。
 この同一原因同一結果の規則は、経験法則としてではなく、経験法則を成り立たせているのは人間の「認識上の規則」であるとみなすことが必要なポイントなのである。
 人々がこの「相関関係思考の枠組み」への確信を持つことができたからこそ、逆に近代科学は、経験法則という相関関係から脱却して、「本質的な条件」を探求探索して選び出し、精錬作業という「リファインメント」を経て作り上げ、これによって初めて「法則関係」をうち立てることが可能となったのである。
 歴史的に見ると、この規則から法則への筋道を、特に物理科学がリードしたのである。本質的で明確な条件だけによって成起する現象世界の領野の中心に位置する理科学は、物理学と化学である。

 4-2 要素と階層のハルモニア

 物質の階層構造を水の分子を例に見ていくと、酸素原子、原子核、陽子そして最小単位はクォーククォークの内部構造は見つかっていない。現在の素粒子物理の理解では、物質の最も小さな単位はクォークと電子などのレプトンと考えられている。
 この「同語反復・トートロジー」という物理の因果法則を複雑系言語哲学に持ち込もうとした人が【論理哲学論考】の著者ヴィトゲンシュタインであった。
 彼の論考は論理学と数学・工学を一つのルツボに入れ込んで溶かし、独自の形式論理の理想を探求しようとし、その立場から、既存の哲学を根本否定するという奇抜な論考を展開した人である。
 不思議なことに、現代論理学は「是か否か」という二つだけの結論を求めるために、形式だけの多様な仕分け記号を考え出して「メタレベル」の意味を棄捨して不毛な述語形式のみを追求する、意味無き思考に埋没する事態となった。
 論理学は言葉の意味を形式記号の中に取り込むことが出来ない。これは要素還元主義を基本とする科学ではなく「主観による思弁」の仕分けを形式化しただけの世界に過ぎない。「文=述語」階層は主観が支配する曖昧なパロール(話者)の世界であるから「述語の言い替え」という到達点のない「循環世界」にはまり込んでしまう。つまり自分の目に見える「経験世界」から、見え無い階層に秘められた内側に内在する真理と実存の住む「秘蔵世界=曼荼羅世界」という、ロジカルな言語の生起する世界に迫ることは決して出来ないのである。
 この違いは大乗仏教の当初の顕教真言密教との行き違い違いと同じであり、階層の異なりはあるが両者は最初から接合されていて一体のものでハルモニアの世界である。
 ラング(言語体・国語体)という社会構造的な立体構造のハルモニアの世界を形成している世界とはどの様になっているのか。
 「顕」は地上に現れた現象世界を意味し、「密」は秘められ隠された論理と「実存」が同居して支配するロゴス(両界曼荼羅)の世界である。
 言語はこの二つの階層が地下と地上の接面でつながって構築されている。それ故にこの二つの階層世界の接合域に設置された階段や出入り口や柱や壁の構造体を詳細に見極めなければならないのである。
 ○地下階層は【アナロゴン・身体類同代理物】という「実存体」で意義と意味を作る「生産ライン工場」或いは「単語」と言う赤ちゃんを「出産準備するお母さんのお腹」とでも言う事ができる。
 ○地上階は、地平の世界で、述語・文・会話と言う情報が渦巻く世界で無数のパロール(話者)による言語が実践される世界である。この地平に立つと、地下世界の「意味の誕生のメカニズム」は見えなくなっている。

 理系は地底から高く伸び上がる梯子を掛けて地平の出口へ至る穴をこじ開けながら地上に登り立ち、眩しく光り輝く「意味が連鎖して動く複雑世界」がどのようにして成立しているのかを究明し、体系的に意味の成立する世界を「要素」で論証しなければならない。
 文系は「意味の成分・要素・規則」を微細なレベルで見たことがないから、梯子を降ろして地下の通路へ降り立ち、地平を支えている世界を手探りして、迷路にはまらないように冷静沈着に、地下世界を支配する「両界曼荼羅=真理と実存」の「存在原因」の科学的な条理を読み解かねばならない。

 ○ランガージュ・langageとは、人間が生まれながらに持っている「言語能力・抽象化能力・カテゴリー化能力」等の活動実態を総括的に呼称したものである。これは脳内にあるロゴス(理性・潜在能力)のことで天与の能力である。
 ○ラング・langueは上の図で示すように、地下と地上が一体化した世界で「国家・民族などの個別共同体で使われている国語体(例えば和語の制度的構造体)」のことで、世界には多種多様な民族独自の言語・ラングが存在しているのである。ラングは「制度・規則・構造」を持つが故に「顕在的社会制度」と呼ぶべきもので、神が与えたものではない。
 もし神が創ったものであるならば、世界の言語は一つしかない筈である。また神が気まぐれに創作したとしても世界の言語の数は多すぎるし、あまりに意味文法が違いすぎる。
 ○「顕在=顕われた」の意味を「具体的・物理的な実態・物質」と捉えてはならない。あくまでも独自に作られた「音声と音声の組み合わせの規則的な領域」にその社会の或る人物によって「意義・意味・概念・規則」を附与したところの「構造体」で、その規則体系の総体をラングというのである。ゆえに「ラング」には三つの概念がある。
 ①「諸言語・諸国語体」 ②「①から帰納される原理的体系」 ③「記号学的原理の概念」。
 このようにラングは社会制度ではなく、社会認識の形で保持されるところの各民族社会の固有の「人間学的認識」と言う事になる。これ故に「自然言語」などという呼称は論理的にありえないのである。すべての言語は「人工言語」であることを銘記すべきである。
 ○パロール・paroleとは国語体・ラングを用いて、その体系規則を実践し情報活用する言語使用者の「意味の語用化・具体的音声の連続・意味の世界を形成する」その有効な人間の言語活動のことをパロールと言う。
 故に、ラングとパロールの関係は、ラングは「地下階層の潜在的構造と地上階層が一体化」した条理で調和するコスモスである。即ち二階層構造の一元認識のハルモニア世界である。
 パロールはラングの「顕在化し具体化した」地上階層に在って、地下階層の存在にあまり気を使うことなく、地上世界から天空に至るマクロコスモスに飛翔し、詩歌・文学・ありとらゆる芸術・非芸術をも展開する気まぐれな能力者であるが、同時に暴君的な側面を持つ気の許せない存在でもある。
 この二つの関係を観るとパロールはラングを突き崩す働きを持ち、逆にはラングによってパロールは規制されるという攻めぎ合いの葛藤が時として巻き起こるのである。調和はどちらも「努力して和する」ことが求められる世界で、この文理の葛藤は具体的に、日本語の「仮名遣い」の時代変遷を観察すると明瞭に判明する。

 4-3 南方熊楠曼荼羅

 インド発祥と言われる曼荼羅が中国へ伝わり、どのような経緯で胎蔵界曼荼羅金剛界曼荼羅を描き出したかは定かではない。わが国の 曼荼羅は九世紀の初めに唐へ渡った空海によって招来された。この両界曼荼羅真言密教の教義の根本中枢をなし全ての教義がこの曼荼羅 に基づいていることは明らかである。真言は一般にサンスクリットの「マントラ・呪文」などと説明されているが呪文などではなく意義素と言う【声字実相義】と言う一粒ひと粒の「言葉の珠」でこれを「意義素=素語」と呼称すべきアナロゴン・身体類同代理物の音節記号化した言語基盤体のことである。この理解がないから「呪文」で片付けられてきたのは実に悲しいことである。何のための空海が【吽字義・んじぎ】を著したのか全く理解されていないというのは驚きである。空海の教えの真なる哲理は「智慧」の本性たる「三密の理法」たる「身体・モノ」と「口・言語」と「意識・心」の主観と客観の二者合一によって生まれる「真なる言語」の「メタ記号=素語」の世界である。
 ナーガールジュナ(竜樹)は「真言」とは秘密の言葉、即ち表面には現れない「言語の内部」に潜む真実の諸相であると、原理的な言語の本性を説明している。
 勿論空海の学んだ核心的な大乗思想の奥義で「密教・みつなるおしえ」の言葉はここから出ている。
 空海は、『真実の意味を知りうる語を真言と名付け、根源を知りえぬ語を虚妄の語であると名付ける』と述べる。
真言密教の思惟は、一元化された心身一体の有機体的科学的世界観である。真言密教の教義の中心に据えられるのは胎蔵曼陀羅と金剛曼陀羅に 描かれる宇宙観で、世界の中心に座する大日如来によって表徴される「真言=言語の中に隠された意味を形成する真理と実存」の世界である。
真言」思 想の哲理は二値的な金胎両部曼荼羅の融合と離反の波動の中で生み出される「真言」を観想したものである。
 胎蔵曼荼羅が現象世界に実在する最も普遍的な「形態を」持つ具体的な「身体アナロゴン:類同代理物=意義を持つモノ」として捉えるのに対し、金剛界曼荼羅では真理と言う「本質に対する論理的な説明体系、即ち動かない法則と言う精神的客観世界のロゴスを描き出している。この「言語の規則・文法」という動かない「経糸」を絶対に崩してはならないと言う言語規則守護の見張り番として象徴化させたものが「不動明王」である。
 規則・法則を守る為に憤怒の形相で縦糸の「経」と言う「規則・枠組み」という意味文法の哲理(真言の教義)を守ることが真なる言語にとって重要なのである。
 
 ヴィトゲンシュタインの【論理哲学論考】は「言語の記述の要素命題=最小レベルの真なるコトバ」とは一体どのようなものであるのかを問題にしている。言語を問題にするのだから当然「意味とは何か」がテーマになる。ところが彼には、意味を定義する姿勢はなく、それどころか「語」の定義すらもデタラメに行われて、論考の最後に匙を投げて問題を棚上げして終わっている。 
 理性は事物の定まった本質を普遍的概念によってある程度把握することができる。しかし現実に存在する具体的なモノ・個物は普遍的なモノに還元することが難しい。つまり山・川・草・木を「何故そのように言うのか」という「言語記号」の成立の問題を要素還元的に意味の要素・意味の成分で対象(名詞)を矛盾なく意味構造の説明が出来るかということだ。  

 南方熊楠
 言語創生の初発の「原初の胎動」に対して、思想家であり民俗学・粘菌学者であった南方熊楠の驚くべき洞察の記録が残されている。
 人間がモノと向かい合ったときに言語が芽生えるその原理を、コスモスを表す「曼荼羅」の図絵と、

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によって得られた言語の「創生の本質」を図式化して解き明かしている。
 彼は東洋の哲理、真言密教の「物・心・事」の三密の理法と西欧の二元論的思考法を用いて根本認識のメカニズムを解き明かしている。
 密教では魂〈無意識〉は輪廻すると考えているので、自分の魂(アートマン)を深く見つめることで、人間の普遍的集合無意識(ブラフマン)に、入っていけることが出来ると考える。
 胎蔵界曼荼羅には、大日如来上部の遍智院に、この集合のシンボルが燃え上がる三角形で描かれ、その中に「一切智印」の文字が印加されている。この智印とは、「言語記号」のことで、一切とは、法則化された言語記号の「音節文字の枠組み」のことをいっている。印加とは認識の記号の「鋳型化=音節記号」のことだ。
 意味は、言葉の創生に関わる人間の問題と一体のところで論じられるべき課題であり、言語を構築した人間の本質を問う領域でもある。
 仏教の思惟は、一元化された心身一体の有機体的世界観である。真言密教の教義の中心に据えられるのは胎蔵界曼陀羅金剛界曼陀羅に描かれる宇宙創成観で、世界の中心に座す大日如来によって表徴される「曼荼羅真言=隠された真実の言語」の世界である。
 思想家、南方熊楠は、明治三十六年八月八日・真言密教の学僧、土宜法龍(どきほうりゅう)宛の書簡の中で、次の様に言語の本質を、密教の三密(しん・く・口・い・意)の世界観である「心・事・物」によって現れる「名・ミョウ」の本質を次の様に述べている。
 ………「両界曼陀羅のうち、胎蔵界大日中に金剛大日あり。その一部「心」が大日滅心(金剛大日中、心を去りし〈力〉部分)の作用により「物」を生ず。物心相反応動作して「事」を生ず。「事」また力の応作によりて「名・ミョウ」として伝わる。………
 胎蔵界曼荼羅は「本質と存在」を現す「身体」にほかならない。 
 胎蔵界曼荼羅は、エイドス(形相)を表出するアナロゴン・身体類同代理物のことで素語理論では「素語」=「形態素=意義素」である。
 金剛界曼荼羅は「法則・規則・規範」という「悟性の範疇や原則」のことで「分析的にして綜合的」である。三密の理法とは【しんくい:身・口・意】で下記の図の「言語の成立原理」を説明したものである。
 ここに絶対的・超越的(宗教的)と相対的(科学的)知識・知性の二つの観点が存在するかのごとく見えるが、実はここには「信仰」や「宗教儀礼」が入り込む余地は全くないのである。

        「真言」の世界観を示す両界曼荼羅の図式 (筆者)
                            
        金剛界曼荼羅   真言   胎蔵界曼荼羅
         【い・意】  【く・口】 【しん・身】
        ヌース(理性)   ロゴス  エイドス(形相)

 

 

 

         人間主体から創成される真なる言語
                 
 ……… 「心」は「事」によってあらわれる。「事」を離れて「心」を察することはできぬ。「事」と「名・みょう」の関係は、「事の重畳複積して、単箇の事々でなく、単箇の事々とは全く別になれるものが「名」である。つまり酸素1原子と、酸素のみながら3原子重複せるオゾンと、作用行動異なるごときものと同じである……………

 南方熊楠曼陀羅に対する思考過程において「心界」とは「考える・欲する・感じる」世界で、人間の心が「物=物界」に接するところに「事」の世界が発生する。その「コトの世界」には、どんな働きの法則が存在するのかを考えると、そこには人間の心が成立させた「コト」の因果律に基づく連続する「事象」が一つの筋道をつけて派生展開させる根源的な「名」の姿が観えてくるといっている。
「物と物」の関係は客観的な法則性の世界である。ココロは主観と客観が同居する世界で「感情や本能を伴ったロゴス・理性」の立ち上がる世界である。心と物の重なるコトの世界は「主観と客観の交差して交わるところで、そこに因果律が条理を建てて有機的な筋道をつけて展開される。その展開の中から言葉の原質的な人体語の概念が最小のレベルの言語素子として組み立てられると考える。筆者はこれをアナロゴン・身体類同代理物と呼称する。

 熊楠は「名.ミョウ」は個々の「単語」ではなく、単語を構成する「言語素子」つまり、単語レベルの意味概念を構成する、さらに小さな単位である「要素」=「言語素子」のことだと言っている。つまり言語のレベル単位で最小の元素的な「意味の構成要素」に対し、これを熊楠は「名」と呼んだのである。図において熊楠は「名」は「印」を結ぶと説明している。「印」とは胎蔵曼陀羅図の中心に置かれた、宇宙の萃点を表す大日如来像の、その上段の遍知院に唯一、仏像ではない三角形の抽象記号がシンボライズされて描かれ、その中に「一切智印」の文字が書き込まれている。
 熊楠は「名・ミョウ」は智によって「印加」されていると図で示しているのである。
 心は本来、白紙状態で、感覚的印象である経験が、外界から感覚器官を通じて「印加」され、これがすなわち「認知」「認識」現象である。認識は経験・体験の集積を人体の器官の身体的レベルで概念化して「印加」したことを意味するのである。
 「一切智」とはこの「印加」を受容可能とする白紙状態の身体と心が一元化して把捉する「智」そのものを指している。自然への問いは、理性の働きが不可欠である。この問に対して自然がどんな答えを与えてくれるかは感覚的経験を抜きにしては全く論じ得ない問題であるからだ。
 熊楠は西洋のデカルト以来の近代科学である主体と客体を分割し、物と心を分離して観察する二値的二元論の主体と客体との対比による科学的な客観世界を深く理解すると同時に、東洋の主客一体化・物心一如・時空の一元把捉、そして、因果律と因縁律の交差する条件作用の理解を、胎蔵・金剛二つの曼荼羅によって直感し理解しているのである。
 金胎両曼荼羅の分離を一つに融合する大日如来の一元的な宇宙観を洞察すると共に、あらゆる世界に位置する一切の存在が本源的な「ことばの要素=名」によってその実相が出現するのであると、真言密教の基本教義の中から言語の本質を読み取っているのだ。
 西欧の心身二元論においては、思考やカテゴリー化などの概念形成は心のみが行い、「身体」はそれに従属する低いレベルの価値しか与えられてはいなかった。しかしながら思考や概念形成に働く身体の重要性が認識されて以来、心と身体が対立するという図式だけでは捉えられない「因縁律」が存在する。
 カテゴリー化は概念形成にはたらく認知の様式であるが、和語における言語の身体化された概念は次のカテゴリーに分類することが出来る。
 つまり身体の部位そのものの形態と、それが時間の中で参入される投企要素が、因縁率を発生させ、因果律の中で新たな条件が動的な方向性を持って連結派生し、ラングの規制枠の中でパロールの力(想像力)によって新たな概念を構造化するのだ。
 つまり和語においては、単語レベル(動詞・名詞)で穏喩・隠喩が形成され、階層的に上位階の「節・文」にリンクしながら多様性を持って述語・文章・会話・芸能・文学・芸術へとイベントを遂げるのである。

 4-4 言語の爆発

 日本語は槍や弓矢を持った一人の天才的能力者の思惟によって一瞬のうちに発明されトップダウンが行われた。ちょうどアインシュタインの相対性原理が、一瞬の閃光を放つ光の中で「悟りを得た」のと同じように、言語爆発が彼の脳内で虹色に輝いたのである。
 真言密教胎蔵界曼荼羅の諸仏の背面は言語誕生の爆発の閃光が虹色に描かれている。


              【中台八葉院】


 胎蔵界曼荼羅の中心に描かれた中台八葉院は、言われているような「蓮の花の台座」などではなく、大日如来から言語の虹色の光が八方に今まさに広がろうとしている。この極彩色は言語の「音韻と多彩な意味」を表しており、また言語の実践を伝播させる役割を持つ行者として四如来の間に四菩薩が描かれている。
 曼荼羅は言語の爆発(誕生)をシンボライズして描いている。そして図の中心に座す大日如来は「アートマン」で、爆発の振動であり核の波動を生みだす「叡智=梵」である。
 「素語」は実態ではなく「原理」を構成し構築する「概念の束=スキーマ」で、目には見えない波動体で「智の形態」が鋳型化されたものである。
 アナロゴン・身体類同代理物と言う実存体(普遍的類同代理物)の意義と意味の放射を「得智」することの出来た偉大なな言語創成者の叡智が「言語脳=左脳」の中で閃光を放って日本語が創成されたかの様である。如来や菩薩や諸仏の背光はこの言語爆発(誕生)の一瞬の彩光が放射状に諸仏の背面に描き出されている。
 宇宙世界の存在認識は、ミクロのコスモスである自分の肉体の認識によって概念の核構造が抽出される。人体の身体機能の認識能力によって、自然の複雑に広がるカオスの混沌世界に対し、素子レベルの言語記号が、自己増殖的に自らの身体に対して言語を組織化し、そこから宇宙の混沌を整理して対象の存在形態を理解可能とする独創的で効率的な記号組織を構築したのである。
 わが国で真言密教を開いた空海は、驚くべきことに著書「吽字義・うんじぎ」で、梵語の「ア音」の「字義」という究極のメタレベルの言語の本質「真言」に迫っている。
和語における「ア・a」は、自称の人称代名詞『吾』であるが「存在する主体」が自分自身であると言う自我の覚醒を表す知覚形態を「ア・a」の母音 に記号化されている。
 「ア」は存在する主体である自分自身が世界を認知し認識するという原始生活からの離脱を始めた初発の原点に智を持つ人間そのものの 存在を表徴化したのである。
人が自分自身の身体と言う現象をどう捉えてきたのかと言う大きな問題をどの様に解き明かすのか。人間は世界を解釈する主体『ア・吾』として存在する。人間が他の動物と根本的に異なるところは、身体の周辺を認知し認識することか ら出発し、やがて周辺の事象から敷延して天空に至る世界像を形成する為に、その身体性と人間学的認識に基づく経験の集積を特定の意味 概念として記号化する。
 意味は意味付け行為によって発生する。意味は静的な事象ばかりではなく事態が推移する状況の中でも派生展開して因果律と因縁率の参入による世界認識を「律」として意味の文法体系に記述する。
 「ア」は存在する自分自身の総体を「ア」の母音音節で表徴したものである。「ア」は自称の人代名詞「吾・ア」「我・アレ」に展 開されている。二音節結合が基本形になっている和語独自の名詞構造は、CV型開音節の音節結合によって、意味概念が構造化されている。この意味構築の法則は、父と母の結びから子供が誕生するという、生命体増殖原理からの学習であると考えられる。この結合のシステム の認識が言語構築の基本的な法則性に関与していることは、あらゆるレベル単位の言語記号は、その接合と融合によってのみ言語が構造化 されると言う法則性の軌跡を示しているからである。
 言語は部分と部分の結合と融合により新たな派生因子を生産し、新しい付加的な要素を自己増殖しながら全体を構築する。和語において は既に単音節の形態素子自体に「イベントスキーマ」としての動的で派生的な膠着志向因子が存在し「カル現象」と言う有機的な概念連 鎖現象(同音異義語の誕生)が行なわれる。

 4-5 インドラの珠網

曼荼羅は因陀羅(インドラ)の珠網を発展させたもので、人間の認識の根源と言語の意味のシステムの複雑さを原理的に絵画や文字や道 具と言う「認識の原材」によって人間の認識のシステムとその本質を「悟るという方式」で一つの到達を理解できる様に図式化したもので あると、筆者は考えている。
門外の筆者などには到底理解の及ぶべきも無い密なる世界である「宗門の教え」を極める道程は、厳しい修行によって行われている。
空海は【第九住心】で、インドラの珠網を引き合いにして語る。(注・住心論)
○………「一珠の中に、一切の珠を入れようとも、ついにこの一珠をい出ず。一切珠に於いて一珠を入れようとも、ついにこの一珠をいでざるなり。故に知んぬ、十方の一切珠は即ち是れ一珠なることを………
 これは言葉の最小レベルの音節を珠と見立てて条理の網目にはめ込んで、その意義の珠が意味文法の規則の条理から決してはみ出さない「音図体系」のことを述べたものである。
 古代ヒンズー教の因陀羅(インドラ)の珠網と言われるものは、一枚の網をこの世の全世界と観たてて、その網の目に幾つもの珠を一面に取りつけ、その一つ一つの珠がこの世界を様々に映し出し、そしてまた全ての珠と珠とが互いに映し合って全世界がその珠網のネットワークの中に、連関する有機的な総体として納まり、同時に珠網全体が世界を照らし出すと言う、宇宙を把捉する「言語」の機能の哲理を理解し易く説明したものである。

 「物と物」の関係は客観的な法則性の世界で、ココロは主観と客観が同居する世界で「ロゴス:理性」を操る脳に住む智慧の力のことある。心と物の重なるコトの世界は「主観と客観の交差して交わるところで、そこに因果律が条理を建てて有機的な筋道が展開される。
 その展開の中から言葉の原質的な人体語の概念が組み立てられる。又身体器官が感じ取る感覚や感性が客観的な形態を把捉して一つのまとまった概念に抽象化する。
 言葉は身体部位とココロ(脳内に存在するロゴス)が直結する身体感覚の中で具体性を構築し構造体としての機能と概念化という意味の表徴構造を音声で記号化し組みたてられる。
 音声と言うココロに隣接して重なる咽喉から発せられる「オト」を「コトダマ・言霊」と古代人は認識していたが、心が因果律の筋道を経てて物事を有機的な道具立てをする世界が言語世界である。
 この言葉は、世界に存在する全てが互いに連関して成り立つ一つの総体として捉え、同時に又微細な生命体の営みにおいてすらも、そこに大宇宙に連関する因果律の深遠な摂理で繋がっていると言う、一つの「理解」の仕方を達成する行為が「一切智」であり,達成し得た人間が「一切智者」なのである。
 東洋の因陀羅(インドラ)の珠網の哲理と、西洋の実証主義が希求する近代科学との接合域で、有から有へと連鎖する因果律の波動世界の探求こそが南方熊楠の追い求めた世界であった。
 「心と物」の接合して重なり合うところが「コト」である。物と心が融合を遂げる内的な上位界の因果律が即ち「縁・エン」であり、人間が自然界へ向き合う接合の場を「縁側」と呼ぶ。和語の特徴は、母音の連続を禁止し、単体の母音は常に語頭に立ち語中や語尾には数例を除いて、決して使われることはないという厳格な「規則」という合理の道筋を立てている。
 曼荼羅は単なる佛・菩薩の集合体ではなく、如来・菩薩の居並ぶ、聖なる胎蔵界曼荼羅世界の中に、俗界の鬼神や精霊までも包含させている。胎蔵界曼荼羅はカオスと聖なるものとを、渾然一体化させて、この世の現実世界に連関する総体の機能システムを「ハルモニア」として胎蔵界曼荼羅に描いている。
 一方金剛界曼荼羅胎蔵界曼荼羅の中の如来・菩薩・明王の三十七尊のみを整理して
その中心に大日如来を据えて四界の系列に区分けして統合させている。
 お経の「経」とは、織物の縦糸のことで、動かない不変の真理を表し、インド語で「スートラー=糸・紐」と呼称し「本を閉じる」という意味から宗教儀礼を規定するもの、と言う意味に使われている。『大乗仏教経糸のように動かない教えとは何か』、『空海が真得した「言葉」の実相は何によって出現し、何を導びき出そうとしているのか』。
 言葉を発するということは、言語概念の世界を創っているということで、全ての問題はこの「認識が形成する概念」の中に存在している。『認識がどのようなシステムを設定して、意味概念を構築し「ことば」に構造化させているのか』。『言語創生の原初の「認識」とは一体どのようなものであったのか』。これらの質問に対する答えを、思想家の南方熊楠は「物・心・事」の三密の理法と西欧の二元論的思考法を用いて根本認識のメカニズムを解き明かす。
 言語は法則ではなく、規則で構造化されている。この規則は織物の縦糸のように重要な「経・スートラ」で、これ無くして布は織り上げることはできない。大乗仏教はこの不動の「経=規則・枠組み」を基に、横糸の六波羅密の般若を絶えず経糸に通して、これを筬(おさ)で叩き続ける、修行という厳しい「般若業」を課しているのだ。

 4-6 ギリシャと東洋のロゴス

 「ロゴス」と言う言葉は、ギリシャ語の中で最も多義的な語で「言語・対比・尺度・定義・概念・思想・法則」などの意味に翻訳されるので、極めて包括的で便利な語である。だから逆にロゴスを用いた思想に関わる説明文は特に判りにくくなる。
ロゴスの持つ「法則的・論理的・規範的」性格は、自然界に存在する「物」が持つ法則性に対応している。自然界に向き合って平行的・対置的に位置付けされるロゴスは、主観と客観の統一体、即ち人間の身体という「モノ」とその身体の一部 である脳から分出される「精神の働きである心」との合一によって、ロゴスは成立することになる。
ロゴスは公共の法であるとともに自然の運動変化の法則であり、同時に魂の深みにおいて見出される真理形成の規範でもある。然しながら、ロゴスと世界は同一ではなく、主観と客観の統一は内側において対立を含むものであるが故に、ロゴスは仮想の世界や現象 の世界に対して否定性を持って立ち現れる。それ故に「ハルモニア」という分裂を阻止する叡智が必要となるのだ。
ソクラテスはこの否定性をアイロニーとして用い、人々に無知を自覚させ、真なる智への愛を呼び起こし、それによって共同にロゴスを分かち合う「ハルモニア実現への模索」を哲学の課題とした。
 東洋におけるロゴスとは、大乗思想の曼荼羅の中核に置かれる「大日如来」であり、絶対者「アートマン(梵brahmanブラフマン )」即ち自分自身の根本主体の自覚作用であるところの、空なる絶対者「智慧」への覚醒(めざめ)を指す。日本におけるロゴスの学は、この大乗思想を学んだ空海真言思想である。

 4-7 「唯識」悟性の哲理

世親(ヴァスヴァンドウ)の唯識三十頌における認識の問題で、彼は「唯識思想」を次のように説明する。「世界のあらゆる事物は、心の本体なる「識・梵」の働きに基づく仮の現出にすぎない」という。この仮現を蔵するものを「アラヤ識=蔵識」と名付けられ、この「識」が行動を縁として現象するときに現実世界のもろもろの表象が現 れるとした。
 この現れたものが「意識面」であり隠れたものが「無意識面=蔵識」で、これが行動を媒介として意識化すると説明する。この意識が対象界を身体の各部位で構造化させ、次のように六分類で説明する。
 眼識(色)・耳識(声)・舌識(味)・身識(触)・意識(法)の六識。

 これらの多様性を統一するものが「自意識」で、自我を構成する「末那識・manana」、即ち自己自身を対象化する「客観」という自我の 覚醒である。自己の中に主観と客観が互いに依存し合うこの「合一の道理」が即ちアラヤ識で、まさにハルモニア・調和の意識統合である。
 ① この相互依存の道理がわからずに煩悩で迷っていると、個々の現象が孤立した実体と考えてしまう。これを「遍計所執性」と呼称し、二値的に個別に不調和に存在する見方である。
 ② 全てが相互依存していると考える。これはハルモニアではなく「依他起性」で、実体を否定する見方である。
 ③ 実体を否定し、同時に個別の存在をも観るという「着定」すなわち「綜合・ジンテーゼ」である。これを「三自性」という。
 これは明らかに、○肯定→ ○否定→ ○綜合 の弁証法である肯定の三段階である。
ここまでは、○テーゼ→ ○アンチテーゼ→ ○ジンテーゼ  と、ヘーゲル弁証法と同じである。ところが、ここからさらに、否定の三段階、即ち「三無生」が存在するという。
  ①分別性の認識に対して、現象には実体がない。「相無性」
  ②他依性に対し、全ては相互依存によって生ずる。「生無性」
  ③真実性に対しては、本来は空であり、仮の現象である。「勝義無性」
これを「三無性」という。ここにおいて「三自性」と「三無性」をさらに綜合して「全ては因果=相互依存」とし、因果による識の変化に過ぎないのだとする。

 般若心経の哲理は、実にこの否定の弁証法に立ち現れる「空」の認識に他ならない。
 相互依存という因果律によって世界が立ち現れるのは、全て意識の作用によるものと断定するこの弁証法は「唯識論」である。
 わが国におけるこの唯識思想は元興寺の「道昭」によって伝えられた。この弁証法の段階を辿って最後の唯識性に到れば一切の煩悩が消 滅し、真実の悟りが得られるとされていて、これはもはや信仰ではない。自力で到達点に達するためには、単に頭でこの道理を理解する(理解・リゲ)するのではなく、禅定という修行の実行によって体得(行 解・ギョウゲ)することが必要であると説かれ、禅門の奥には厳しい求道の道が待ち受けている。

 4-8 意義と意味を生み出す「萃点・すいてん」

 世界の中心にある我が身『ア』は、自称の人代名詞「吾・我」であるが原意は、この世の中心に存在する者・自我を表す。「ル」は、現在進行中の状態・存在する事象の形式的概念で、英語のingと同じである。「アル=有る・在る」はこの二個の「素語」の結合によって動詞の語幹の意味と動的な「テンスと局面」が「ル」によって構造化されている。
 胎蔵界曼荼羅図の中心に座す大日如来は様々な言葉で捉えられている。
 即ちインド哲学では【叡智・アートマンブラフマン・梵・唯一者】と言われ、仏教では、【涅槃・無我・如来像・法性・真如】と称されるが、本質的には皆同じで、南方熊楠はこれを脳が思考判断を実行する「主体認識の知覚集中作動基点」と観じ、これを「萃点・すいてん」と呼び、空海の「真言如来」の語を、自分の科学思想の観点から「言い換え」をしてみせたものと考える。