野村玄良・ささ玄・第3回 ブログ版『日本語の意味の解』”狩人が創った日本語”

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◆狩人が作ったロジカルな日本語

日本語は神様が造ったのではなく、一人の超越的な能力を持つ狩人が創ったのである。
「何・なに」とは「ナ・柔らかな」+「ニ・土」で、土に付けられた獣の足跡を観察する「好奇・疑問」のコトバであり、「知る・しる」は、「シ・下」に刻まれた「ル・存在する事象の形式的概念」で、土の足跡の多様な痕跡は情報であり、その意味するものを「悟・さとる=サ・斜め下+取る」でその情報を探って取り込むことが「知る・下の痕跡を探求」することである。
現代においても、言葉の意味するものを、その根源的な側面で、反省的に理解することが強く求められて居る。
石器時代の日本語の本質とは何か。日本語が歩み続けてきた長い道程に古い文献が累々と積み置かれ、道々に、様々な歴史の轍(わだち)や人々の日常の足跡が刻みつけられている。
幾度となく災害に打ちのめされる我々は、今それらを振り返って「それはナニカ」と新たな観点から読み解くことによって、言葉の中に潜む先祖からの伝承や警告や生きる知恵を、謙虚に学び取るべきではなかろうか。
言語創生の過程は人間が火を扱い、石や木を加工して狩猟の道具を手にし、野獣から人へ踏み出した過程と歩を同じくして、言語を発明し人間性自体が形成されていったものと考える。
言語の起源の問題は昔から難問とされてきた。人間特有の能力として言語と並び注目されるのは、道具の使用とその製作である。通常の道具が自然環境に働きかける手段であるのに対し、言語は社会的相互作用、あるいは共同化の手段である。道具が孤立して存在するということはなく、常に弓は矢を射るためにあり、矢は獲物を射殺すためにあり、矢で射止めた獲物は生きる糧とするために「いる・要る」⇒「射る」のである。
つまり生命維持のために食べ物が「イル・要る」という前提において矢を「イル・射る」。射られた矢が獲物に命中すると、矢先が獣の体の中に「イル・入る」のである。 「はいる」は矢の端が「はいる・端入る」と言う構造になっている。
「イル・炒る・煎る」は食べ物を加工するために火で攻めることを意味する。「鋳る」は、火で溶かした金属を鋳型の中へ「イル・鋳る」のである。
イル」を素語分析すると、「イル」=「イ・尖りの形態・矢を射る形態」+「ル・現在進行中の状態・存在する事象の形式的概念(活用語尾)」=「射る」という人間の道具を用いる行為が「……のために」で行なわれ、その行為は流れる時間の中で現象を引き起こし派生的に事象を「モノゴト」というものの引き起こす事柄を因果律という法則性の観点からの変動の局面を切り取って同一の音節構造の中で「イベントスキーマ=概念の束化」という派生現象を構造化して「同音異義語」として封じ込める。その変容局面を切り取って言語記号で構造化して対象の形態を構造説明する、その説明が「素語」という単体の「原記号」でそれを「単体スキーマ」と呼称する。だから「単体スキーマ」は「実質」であり「実体」であり「誰もが認識できる実態」を認識の「核」として意味の構造を構築する「原材」としての言葉の「原記号」となしたのである。

筈(はず)
矢の末端の弦に番がえる凹みの部分を言う。古くは箆に切込みを入れるだけだったが、現在では角やプラスチックでできた部品をつける。筈は、挿し込んだ後に筈巻(はずまき)という糸を巻きつけて抜けるのを防ぐ。筈が弦から矢を発射する特は必ず「外れ」て矢が飛び出す。弦が外れるのも、はまるのも当然のことで、それができない様なそんな「筈」は無いという言葉である。当然のことを「筈」というようになったからこの言葉は石器時代のものだ。これは今でも否定形で「そんな筈はない」といった言い回しに残っているから、現代でも1万2千年も前の狩人が創った単語を使っているということになる。
「ハズ」の定義をすると「ハ・端」+「ス・通過する形態」⇒「ズ・簡単に通過しない」。濁音は清音の意義に「触り・雑な形態を付加」であるから「ズレ=はずれ」。筈が弦(ゆづる・ゆみのつる)から外れないと矢が飛び出せない。
ちなみに、同じ「はず」でも「弭」と書いた場合、弓の上下の弦を掛ける部分を指す。この混同を避けるため、筈を矢筈、弭を弓弭(ゆはず)ということもある。

◆「ヰノシシ・猪」は「ヰ・ゐ」で、猪はその家族が移動するときは必ず一列に連なって移動する。母猪が先頭に立ち、子供たちをはさんで、しんがりを雄親が守る時もある。「ヰすわる」は「連続して」その場所に存在することである。

「ヰ・wi」
「ヰ=ウ+イ=う/u/+い/i/=/wi/(母音結合による母音調和)・猪の形態・連続する形態」。猪の家族が移動するときの連なる形態。母親が子供の猪をを率いる形態。
奈良時代の発音では、かすかに/u/音が残存していた。
万葉仮名 音読 【位・委・威・萎・偉・為・韋・謂】。
訓読 〔井・猪・藺・藍〕。

『ヰ:wi』
【意味概念】 同類の物事が続く形態:連続・継続・引率。
イノシシを「猪・ヰ」と言う。「シシ」は獣の肉を意味し。鹿の肉を「カノシシ」と言う。
「ヰ・猪」は「率る」と同じ「引率・連続」の意。ではなぜ猪が引率なのか。古代人は猪の習性をよく観察していた。先頭に立った母親が沢山の子供(瓜坊・ウリボウ・ウリンボ)を引きつれて必ず一列に行儀よく移動する。たまに父親猪がしんがりを勤める時もある。これを「ゐども・猪伴」あるいは「ともじ」「うなとも」などと呼ぶ。
「ヰド・井戸」は「ヰ・連続」+「ト・ド(乙類)・線引して囲んだ内側=所」だから、「連続するものが、線引きして囲んだ内側にある」これは、連続して涌き出てくる水が取り囲まれた所の意である。「ド」は周りが立体的に取り囲まれた形状である。清音の「ト」(甲類)は、「線引きして平面的に取り囲む意」となるから濁音でなければならない。
「ヰル・居る」=「ゐ=ウ+イ=ui=wi(母音調和)・猪の形態・連続する形態」+「る=存在が持続する形態」。連続してその場所に滞在すること。
「鄙・ヒナ」は「平でなよやか」の意味構造であるから田園の広がる土地を表現した語。
人類が、厳しい自然環境の中で生き延びるためには、家族や血で繋がった同族集団(うから)を母体とした部族社会へと向かっていったと考えられる。外敵に対峙し狩に成功する為には集団の結束力が必要で、そのためには優れたリーダーの指示に従って行動する必要があった。
この指示命令に必要不可欠なものは情報のシステム・言語である。
食糧確保のために行われる狩の成功こそが、集団の死活を分ける生命線であった。狩りが成功するためには狩の役割分担が必要であった。獲物の発見、状況分析・追跡・追い出し、囲い込み、投槍・挿槍・仕留め・解体・運搬・加工・分配と言った集団の役割分担作業は、指揮者の統率によって、はじめてスムースに行われるのである。
狩の作法や戦術、あるいは共同生活における調整といった重要な項目のみならず、集団と言う社会全体の規則の決定・守らなければ罰則を与えると言う「掟・オキテ」は共同生活を潤滑に、また快適な環境にするための有益な知恵である。
一万年を遡る旧石器時代に言葉は当然使われていたであろう。何故ならばオーストラリアのアボリジニ人の言葉は、その生活様式旧石器時代であったにもかかわらず、非常に高度に発達した言語体(ラング)を駆使して生活していたことが綿密な調査によって判かっているからである。
わが国の縄文草創期の時代を代表する狩猟具は、槍と弓矢である。槍や矢の先端には、石の鏃・ヤジリが使われた。弓・弦(ツル)矢柄(ヤガラ)ともに植物が使われている。縄文人は盛んに弓矢を使って狩猟活動をしていた。
遺物としては煮沸器具である縄文式土器が、竪穴式住居から日用品の雑器類が多くみつかっており、集落も構成していた。また、石器の産地の考察から、縄文時代にも海洋を越える交易があったことも判ってきている。また、死者を埋葬した跡があることから、縄文の人々には初期の宗教 観があったことも確認されている。
従来の歴史書では縄文時代は主に植物採取・狩猟や漁労をして、少人数の集団が移動をしながら暮らしていた素朴な時代と考えられていたが、近年の考古学上の発見により、縄文時代観が大幅に塗り替えられつつある。例えば、1992年から発掘が始まった青森県青森市三内丸山遺跡の調査により、長期間にわたって定住生活をしていたことや、クリ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどを栽培していたことがわかっている。三内丸山遺跡を象徴する巨大木造建築物も発見されている。
ここで、我が国の縄文時代をはるかに遡る時代を覗いてみよう。
人類がアフリカで誕生してから200万年。その間、人類は道具を使って獲物を手に入れることに工夫を凝らして生き抜いてきた。人類の歴史の99%以上は「石器」が主役をつとめる石の時代であった。
日本列島では土器が出現する約1万2千年以前の時代を「旧石器時代」と呼んでいる。旧石器時代の日本列島は氷河期と言われるほど寒冷な気候であったため、現在より海水面が140mも低下していたと考えられている。旧石器時代の人々は、日本列島と大陸が陸地でつながっていたので、大陸からナウマン象やオオツノシカなどの獲物を追いかけて日本列島に渡ってきたと考えられており、新潟県内に残る旧石器時代人の足跡の化石は今のところ約3万年前にさかのぼると推定されている。
考古学は土の中から発見した石のヤジリを手にした時から始まったといわれている。 「矢」の存在は人類にとって非常に大きな問題で、この石器の研究が考古学の基礎研究として今も重要項目になっている。
現在では日本列島に人類が生息していた時期は地質学的に見て、およそ4~5万年前の中期の旧石器文化に遡るとされている。こんな古い時代の人間のことや、言葉の実態について何一つ手掛かりとなる資料は存在しない。言葉がいつ何処で誰がどの様に作り上げたのかという問題は永遠の謎に終わるに違いない。しかしながら、少なくとも縄文時代の遺跡や住居跡から想定される日本人の先祖達の生活ぶりから判断して、現代の和語とはそれほど大きな隔たりはないものと考える。何故ならば言語の変化の歴史を観察すると音韻の変化はかなりの速さで変化するものの、古相の単語の音韻変化はそれほど変化していないからだ。
例えば、人体部位の名称の「目・口・歯・頰・頭・鼻・手・足・踵・腰・腹」などの語は万葉集古事記や、平安時代源氏物語に現れる語と全く同じで、変化していないし、異相の方言も存在していない。