『日本語の意味の解』”意味の解析とは”

パラドックス

 3-1 ソライティーズ・パラドックス 

 パラドックスとは、正当な推論方式に基づいていながら、一般に認められている結論とは反対の結論に至るような、自己矛盾がでてしまう論述を言う。
 この自己矛盾露呈説明を利用して、論敵の矛盾を暴き出すというやり方がイギリスの哲学者バートランドラッセルのフレーゲ理論の攻撃に用いられて、その巧妙な手口が有名になったことがある。しかしながらこの方法は攻撃ゲームのようなもので、述語や定義を立てない不確定な単語の意味を弄ぶだけで、定義も立てずに、Aが正しいかBが正しいかという「述語形式」だけが問題となるので、本質の問題や真理は棚上げされ、議論がやがて壁に当たって空中分解する虚しいゲームである。

 小山(ソライティーズsorites)はギリシャ語のソロスから派生した単語で、英語はこれをヒープheapと言う。この語は山と言う程の意味はなくヒープは「小さなてんこもり」日本語で言えば「積み重ね・塊」或いは「マウントされた塊・小皿いっぱいの小麦の盛り上がり」といった程度の「ヤマ盛」を意味する語である。本来「砂山のパラドックス」はパラドックスではなく、ヒープと言う単語の意味内容に対するパズルである。皿に盛った小麦の粒の数の線引きのパズルである。
 ヒープという単語の無限定な曖昧さに対して、コトバ遊びとして「数を取り込んだ謎かけごっこpuzzle」が行われたが、それが言語学や論理学の「命題=定義」の問題として学者が大真面目に取り上げる問題にまで発展した。
 小山のパラドックス( paradox of the heap)は、述語や単語の曖昧性から生じるパラドックスの一種である。これをソライティーズ・パラドックス(Sorites paradox)とも呼ばれ、砂の山があったとき、そこから数粒の砂を取り去っても砂山のままだが、そうやって粒を取り去っていったとき、最終的に一粒だけ残った状態でも「砂山」と言えるか、という問題である。此れが小麦になったり、禿の髪の毛の数の問題にすり替えられたりして、面白可笑しくパズルが語られてきたのである。
 実はこの砂山のパラドックスは「スナヤマ」という単語の意味の正体が説明できないという「定義不能」を前提としてこれを茶化して問うている。
 ① 基本的には「スナヤマ」という語がきちんと定義できないために、この問題解決の学問領域は「言語哲学」であるとたらい回しにされて棚上げされている。
 ② 一方数学では、全ての用語が明確な定義を持っている。このパラドックスは不明確な用語を数学的な論理式に持ち込む際に常に付きまとう問題であり、定義不能な不明確な概念は数学では処理ができない。
 論理哲学論考を表したヴィトゲンシュタインも論考の果てに行き詰まったのは、言語記号の意味の究極の定義「要素命題」で、世界に対し投影的関係に立つ「文」を構築する有限個の要素的な「原記号=意味の弁別体」の「メタ記号」の未発見で、彼の論考は破綻し頓挫したのである。

 言語の意味と数学の内観
 人間は言語によって「意味される対象」や「限定される対象」を語の最小の意味の弁別体である「形態素子=素語・ソゴ」によって単語を組みたて、さらに単語と単語を合わせで節や文という階層構造に組み立てて、その人間活動によって引き起こされた内面的形質をラング「言語体」と呼称している。もちろんこの単語は動詞や名詞だけではなく全ての品詞のことで、辞を含むことは言うまでもない。
 この脳内で働く内面的形質である「ロゴス」の存在がなければ人間活動の外面的形質の表出は有り得ない。ものを考えるとき人は言語を用いて、自身の経験と体験によって積み上げられた知識の集積を言語化して様々な認識活動を行っている。
 一方、数学では専ら内観または内省的思考によって、ものごとを数理の抽象によって「悟る」という方法で理解しようとする。
 故に、意味を取り込めない数学であるがゆえに、言語の本質や実存(本質に対置する物の存在)に対する判断が全くできないのである。数学は「正否」のみの世界であり言語によって数学記号が初めて成立するという階層構造の枠組みから抜け出すことはできない。数学には言語に対する内観があるなどといった考えは幻想に過ぎない。何故なら「内観・うちをみる」という単語の意味の定義を数学記号で行うことは不可能であるからだ。

 3-2 ソシュールパラドックス

 ソシュールを賛美する数多の言葉を並べると、「言語学の巨匠」・「近代言語学の父」・「構造主義への道標」・「記号学の提案者」・「言語哲学者」等々。
 ソシュールの『一般言語学講義』はセシュエとバイイによって、ソシュールの死後に、本人の「出版許諾の遺書」も無しに勝手に編纂されたものである。講義を書きとった大学ノートは他の学生から借りたもので、セシュエとバイイは実際には講義には出席していなかったという驚くべき事実がある。この本が出版されて、盲目的な信奉者らの賛美の大合唱が湧き上がった。その後、この講義の受講者の一人が書き残した『コンスタンタン氏のノート』が発見されて話題となった。その講義録に次のような記載がある。
   ……… 『語はシニフィエ(所記・signifiè)がなくてもシニフィアン(能記・signifiant)がなくても存在しない。けれどもシニフィエはそれぞれの言語のシステムにおける項の相互関係を前提とした言語的な価値を要約したものに過ぎない。別の言い方をすれば、言語には差異しかないと言う原理である。差異と言うと二つの実定的な項(termes positifs)があって、その間に差異があることを思い浮かべる。しかしながら逆説的なことに、言語には実定的な項の無い差異しか存在しない。これは逆説的な真理(パラドックス)である。』………
 ここにおいてソシュールは「逆説的」という「曖昧で多義的」な言葉を使って講義受講者らを翻弄する。彼のこのパラドックスを理解しやすい言葉に引きなおすと、次のようになる。
 「実定的な項があるからこそ差異が確認できるというのが真理なのだが、少なくとも言語においては意味作用やシニフィエシニフィアンについて語る限り、それらは「実定的なもの」とは言えない、にもかかわらず、そこにあるものは差異しかないのである」、と。
 彼は言う。
………シニフィエシニフィアンの関係から項そのものにたどりつけば、対立について語ることが出来るだろう。………厳密に言うと、記号など無く、記号間の差異しかない。………と。
 これこそがパラドックスである。項が存在しない言語に仮想の項の存在を立てて、その仮想実体の上に対立関係を見い出す。
 ソシュールは「関係」と「差異」と言うコトバの多義性と曖昧さを利用して論点を霧の中に閉じ込める。つまり逆説の逆説がさらに逆説を生み出すと言うパラドックスの迷路へ受講者を誘い込んでしまうのだ。
 これ以上ソシュールについて語ることは止めにしよう。何故ならば、彼の「言語記号の恣意性説」には二重のトリックが隠されている事が判ったからである。
 ソシュールが何故パラドックスのトリックを使って受講者らを煙に巻いたのか。その答えは、「意味の定義」ができない形而上学という「単語の意味を要素分析ができない」非科学的な思弁の学問だからである。
 シニフィアンsignifierはフランス語の 動詞「意味を表しているもの」であり、 シニフィエsignifiéは、「意味されているもの」で、これを「言語価値を要約したものだ」と彼は説明する。だから「意味を表しているものは 言語価値を要約したもの」ということになる。
 これを判りやすくすると「意味=(言語価値=意味を要約したもの)」故に「意味とは意味を要約したもの」と不可解な言葉を並べていることが判る。言語学の目的は単語の意味を要素で定義をすることである。
「意味されているもの」「要約」「表現」「内容」などといった「ボカシ」のフレーズで学生を惑わしているのは「語の意味」がよく判らないからパラドックスを利用したのだ。

 意味論が未だに言語学から取り外されている現状を見るとき、どうして彼を非難などできようか。彼は自分で全く本を残していない。少なくとも本にしないことで彼は学問に謙虚に対応している。この清らかさは言語の本質を見い出せない絶望感から来ているものと思われる。彼が言語学に興味を失ってから何をしていたのか。それは晩年に詩人に宛てた質問状やアナグラムに没頭したことを考え合わせるとよく判る。

 アルファベットは僅か二十七文字のアバウトな表記記号である。漢字という意味と音韻を含有する数万個の表記記号と比較すると月とスッポンほどの違いがある。漢字文化は言葉の曖昧さを許さない。この点において日本文化は二重構造の調和された言語を使ってバイリンガル的に意味の世界を自由に闊歩することができるのである。日本は漢字文化を巧妙に我がものとし、長年にわたって莫大な恩恵を受けているのだ。
 それに引きかえ、英語は他言語話者からすれば、印刷された単語のスペルを見て正確な発音をすることの不可能な表記体の言語である。そして単語の意味があまりに多義的であるが故に極めてアバウトな感じがする。日本語も同等にかなり多義的であるが、和語と漢語の二つで「複眼認識」することができるので、より曖昧さが小さくなり、判断の適格性をアップする事が可能となる。だから英語の発音が日本人には難しいのである。この二十七文字のアルファベットはシンプルではあるけれども複雑な音韻構造を持つ英語の約五万五千の英単語の意味の分析はこのやせ細った表記体からでは、絶対に意味構造を抽出することは出来ない。このことが意味論を断念させているのだ。
 意味を定義が出来ない不幸な欧米言語学ブラックホールを、誰が埋めるのであろうか好奇心を持って凝視を続けたいと考えている。

 

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