『日本語の意味の解』”第6回 ”空海が唱えた三密の「心・口・意」の洞察”

思考と着想

 4-1 規則から法則へ 

 科学においても、産業においても、言葉の学問においても保守化と言うマンネリが始まると、やがてその世界は衰微へ向かい始める。この停滞を防ぐには頭の切り替えが必要となる。
 思考方法の何処をどの様に切り変えるのか。視点と視座を変えることにより思考法が変わる。もしそうだとするなら「対象を外から視る世界」ということになり、目の位置の問題になる。果たして外から見る角度を変えるだけで十分か。
 ここで最初に、人間の思考と行動の関係を考えてみよう。一般に、人間が行動しているときは思考が途切れたり、または希薄となる。行動が停止すると今度は思考が活発に行われる。人は行動するために考える。全てがうまくいっているときは何も考える必要がないからだ。
 頭を切り替えたいときは、思考の筋道に働く因果律に、何らかの変化をもたらす新たな着想という付加的条件を投企する必要がある。
 人生が変転し明暗の分かれる一生最大の縁起の場は、男女の出会いの場であろう。我が国の封建時代においては、身分制度や生活風習といった社会規範の作用によって、恋愛の自由度が制約されたので縁組・縁談が重要であった。この縁結びには仲人を立て、その見立てと引合わせの力の範囲内において、かなり有効に機能したのであった。
 「縁談」の字は「談話」を伴っており、言葉が縁を立ち上げることを意味している。二人だけの合意の言葉で縁起するときもあるし第三者が参入して話をまとめる場もある。人生色々で、縁起縁談から因縁のつぼみが取り付き、花開く場合もあるし、何も起こらない時もある。しかし、結ばれたからといって喜ぶのは式典の時だけで、結果が出てからでしか評価できないところに人生の苦悩がある。
 科学のコンテクストではこれを因果律と言う。原因と結果との関係形式は、Aと言う条件の下にBという現象が必ず起きる。AがあってBが起こらないことはない。この形式を方法論として取り込んだのがニュートンの「プリンピキア」で、そこには規則という形で、自然現象に「整合的な原因」を見付けるべきであるとの条件と、その際に「同一の原因に対して同一の結果」が生じると考えるべきである事の二点の条件具備が指摘される。
 この同一原因同一結果の規則は、経験法則としてではなく、経験法則を成り立たせているのは人間の「認識上の規則」であるとみなすことが必要なポイントなのである。
 人々がこの「相関関係思考の枠組み」への確信を持つことができたからこそ、逆に近代科学は、経験法則という相関関係から脱却して、「本質的な条件」を探求探索して選び出し、精錬作業という「リファインメント」を経て作り上げ、これによって初めて「法則関係」をうち立てることが可能となったのである。
 歴史的に見ると、この規則から法則への筋道を、特に物理科学がリードしたのである。本質的で明確な条件だけによって成起する現象世界の領野の中心に位置する理科学は、物理学と化学である。

 4-2 要素と階層のハルモニア

 物質の階層構造を水の分子を例に見ていくと、酸素原子、原子核、陽子そして最小単位はクォーククォークの内部構造は見つかっていない。現在の素粒子物理の理解では、物質の最も小さな単位はクォークと電子などのレプトンと考えられている。
 この「同語反復・トートロジー」という物理の因果法則を複雑系言語哲学に持ち込もうとした人が【論理哲学論考】の著者ヴィトゲンシュタインであった。
 彼の論考は論理学と数学・工学を一つのルツボに入れ込んで溶かし、独自の形式論理の理想を探求しようとし、その立場から、既存の哲学を根本否定するという奇抜な論考を展開した人である。
 不思議なことに、現代論理学は「是か否か」という二つだけの結論を求めるために、形式だけの多様な仕分け記号を考え出して「メタレベル」の意味を棄捨して不毛な述語形式のみを追求する、意味無き思考に埋没する事態となった。
 論理学は言葉の意味を形式記号の中に取り込むことが出来ない。これは要素還元主義を基本とする科学ではなく「主観による思弁」の仕分けを形式化しただけの世界に過ぎない。「文=述語」階層は主観が支配する曖昧なパロール(話者)の世界であるから「述語の言い替え」という到達点のない「循環世界」にはまり込んでしまう。つまり自分の目に見える「経験世界」から、見え無い階層に秘められた内側に内在する真理と実存の住む「秘蔵世界=曼荼羅世界」という、ロジカルな言語の生起する世界に迫ることは決して出来ないのである。
 この違いは大乗仏教の当初の顕教真言密教との行き違い違いと同じであり、階層の異なりはあるが両者は最初から接合されていて一体のものでハルモニアの世界である。
 ラング(言語体・国語体)という社会構造的な立体構造のハルモニアの世界を形成している世界とはどの様になっているのか。
 「顕」は地上に現れた現象世界を意味し、「密」は秘められ隠された論理と「実存」が同居して支配するロゴス(両界曼荼羅)の世界である。
 言語はこの二つの階層が地下と地上の接面でつながって構築されている。それ故にこの二つの階層世界の接合域に設置された階段や出入り口や柱や壁の構造体を詳細に見極めなければならないのである。
 ○地下階層は【アナロゴン・身体類同代理物】という「実存体」で意義と意味を作る「生産ライン工場」或いは「単語」と言う赤ちゃんを「出産準備するお母さんのお腹」とでも言う事ができる。
 ○地上階は、地平の世界で、述語・文・会話と言う情報が渦巻く世界で無数のパロール(話者)による言語が実践される世界である。この地平に立つと、地下世界の「意味の誕生のメカニズム」は見えなくなっている。

 理系は地底から高く伸び上がる梯子を掛けて地平の出口へ至る穴をこじ開けながら地上に登り立ち、眩しく光り輝く「意味が連鎖して動く複雑世界」がどのようにして成立しているのかを究明し、体系的に意味の成立する世界を「要素」で論証しなければならない。
 文系は「意味の成分・要素・規則」を微細なレベルで見たことがないから、梯子を降ろして地下の通路へ降り立ち、地平を支えている世界を手探りして、迷路にはまらないように冷静沈着に、地下世界を支配する「両界曼荼羅=真理と実存」の「存在原因」の科学的な条理を読み解かねばならない。

 ○ランガージュ・langageとは、人間が生まれながらに持っている「言語能力・抽象化能力・カテゴリー化能力」等の活動実態を総括的に呼称したものである。これは脳内にあるロゴス(理性・潜在能力)のことで天与の能力である。
 ○ラング・langueは上の図で示すように、地下と地上が一体化した世界で「国家・民族などの個別共同体で使われている国語体(例えば和語の制度的構造体)」のことで、世界には多種多様な民族独自の言語・ラングが存在しているのである。ラングは「制度・規則・構造」を持つが故に「顕在的社会制度」と呼ぶべきもので、神が与えたものではない。
 もし神が創ったものであるならば、世界の言語は一つしかない筈である。また神が気まぐれに創作したとしても世界の言語の数は多すぎるし、あまりに意味文法が違いすぎる。
 ○「顕在=顕われた」の意味を「具体的・物理的な実態・物質」と捉えてはならない。あくまでも独自に作られた「音声と音声の組み合わせの規則的な領域」にその社会の或る人物によって「意義・意味・概念・規則」を附与したところの「構造体」で、その規則体系の総体をラングというのである。ゆえに「ラング」には三つの概念がある。
 ①「諸言語・諸国語体」 ②「①から帰納される原理的体系」 ③「記号学的原理の概念」。
 このようにラングは社会制度ではなく、社会認識の形で保持されるところの各民族社会の固有の「人間学的認識」と言う事になる。これ故に「自然言語」などという呼称は論理的にありえないのである。すべての言語は「人工言語」であることを銘記すべきである。
 ○パロール・paroleとは国語体・ラングを用いて、その体系規則を実践し情報活用する言語使用者の「意味の語用化・具体的音声の連続・意味の世界を形成する」その有効な人間の言語活動のことをパロールと言う。
 故に、ラングとパロールの関係は、ラングは「地下階層の潜在的構造と地上階層が一体化」した条理で調和するコスモスである。即ち二階層構造の一元認識のハルモニア世界である。
 パロールはラングの「顕在化し具体化した」地上階層に在って、地下階層の存在にあまり気を使うことなく、地上世界から天空に至るマクロコスモスに飛翔し、詩歌・文学・ありとらゆる芸術・非芸術をも展開する気まぐれな能力者であるが、同時に暴君的な側面を持つ気の許せない存在でもある。
 この二つの関係を観るとパロールはラングを突き崩す働きを持ち、逆にはラングによってパロールは規制されるという攻めぎ合いの葛藤が時として巻き起こるのである。調和はどちらも「努力して和する」ことが求められる世界で、この文理の葛藤は具体的に、日本語の「仮名遣い」の時代変遷を観察すると明瞭に判明する。

 4-3 南方熊楠曼荼羅

 インド発祥と言われる曼荼羅が中国へ伝わり、どのような経緯で胎蔵界曼荼羅金剛界曼荼羅を描き出したかは定かではない。わが国の 曼荼羅は九世紀の初めに唐へ渡った空海によって招来された。この両界曼荼羅真言密教の教義の根本中枢をなし全ての教義がこの曼荼羅 に基づいていることは明らかである。真言は一般にサンスクリットの「マントラ・呪文」などと説明されているが呪文などではなく意義素と言う【声字実相義】と言う一粒ひと粒の「言葉の珠」でこれを「意義素=素語」と呼称すべきアナロゴン・身体類同代理物の音節記号化した言語基盤体のことである。この理解がないから「呪文」で片付けられてきたのは実に悲しいことである。何のための空海が【吽字義・んじぎ】を著したのか全く理解されていないというのは驚きである。空海の教えの真なる哲理は「智慧」の本性たる「三密の理法」たる「身体・モノ」と「口・言語」と「意識・心」の主観と客観の二者合一によって生まれる「真なる言語」の「メタ記号=素語」の世界である。
 ナーガールジュナ(竜樹)は「真言」とは秘密の言葉、即ち表面には現れない「言語の内部」に潜む真実の諸相であると、原理的な言語の本性を説明している。
 勿論空海の学んだ核心的な大乗思想の奥義で「密教・みつなるおしえ」の言葉はここから出ている。
 空海は、『真実の意味を知りうる語を真言と名付け、根源を知りえぬ語を虚妄の語であると名付ける』と述べる。
真言密教の思惟は、一元化された心身一体の有機体的科学的世界観である。真言密教の教義の中心に据えられるのは胎蔵曼陀羅と金剛曼陀羅に 描かれる宇宙観で、世界の中心に座する大日如来によって表徴される「真言=言語の中に隠された意味を形成する真理と実存」の世界である。
真言」思 想の哲理は二値的な金胎両部曼荼羅の融合と離反の波動の中で生み出される「真言」を観想したものである。
 胎蔵曼荼羅が現象世界に実在する最も普遍的な「形態を」持つ具体的な「身体アナロゴン:類同代理物=意義を持つモノ」として捉えるのに対し、金剛界曼荼羅では真理と言う「本質に対する論理的な説明体系、即ち動かない法則と言う精神的客観世界のロゴスを描き出している。この「言語の規則・文法」という動かない「経糸」を絶対に崩してはならないと言う言語規則守護の見張り番として象徴化させたものが「不動明王」である。
 規則・法則を守る為に憤怒の形相で縦糸の「経」と言う「規則・枠組み」という意味文法の哲理(真言の教義)を守ることが真なる言語にとって重要なのである。
 
 ヴィトゲンシュタインの【論理哲学論考】は「言語の記述の要素命題=最小レベルの真なるコトバ」とは一体どのようなものであるのかを問題にしている。言語を問題にするのだから当然「意味とは何か」がテーマになる。ところが彼には、意味を定義する姿勢はなく、それどころか「語」の定義すらもデタラメに行われて、論考の最後に匙を投げて問題を棚上げして終わっている。 
 理性は事物の定まった本質を普遍的概念によってある程度把握することができる。しかし現実に存在する具体的なモノ・個物は普遍的なモノに還元することが難しい。つまり山・川・草・木を「何故そのように言うのか」という「言語記号」の成立の問題を要素還元的に意味の要素・意味の成分で対象(名詞)を矛盾なく意味構造の説明が出来るかということだ。  

 南方熊楠
 言語創生の初発の「原初の胎動」に対して、思想家であり民俗学・粘菌学者であった南方熊楠の驚くべき洞察の記録が残されている。
 人間がモノと向かい合ったときに言語が芽生えるその原理を、コスモスを表す「曼荼羅」の図絵と、

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によって得られた言語の「創生の本質」を図式化して解き明かしている。
 彼は東洋の哲理、真言密教の「物・心・事」の三密の理法と西欧の二元論的思考法を用いて根本認識のメカニズムを解き明かしている。
 密教では魂〈無意識〉は輪廻すると考えているので、自分の魂(アートマン)を深く見つめることで、人間の普遍的集合無意識(ブラフマン)に、入っていけることが出来ると考える。
 胎蔵界曼荼羅には、大日如来上部の遍智院に、この集合のシンボルが燃え上がる三角形で描かれ、その中に「一切智印」の文字が印加されている。この智印とは、「言語記号」のことで、一切とは、法則化された言語記号の「音節文字の枠組み」のことをいっている。印加とは認識の記号の「鋳型化=音節記号」のことだ。
 意味は、言葉の創生に関わる人間の問題と一体のところで論じられるべき課題であり、言語を構築した人間の本質を問う領域でもある。
 仏教の思惟は、一元化された心身一体の有機体的世界観である。真言密教の教義の中心に据えられるのは胎蔵界曼陀羅金剛界曼陀羅に描かれる宇宙創成観で、世界の中心に座す大日如来によって表徴される「曼荼羅真言=隠された真実の言語」の世界である。
 思想家、南方熊楠は、明治三十六年八月八日・真言密教の学僧、土宜法龍(どきほうりゅう)宛の書簡の中で、次の様に言語の本質を、密教の三密(しん・く・口・い・意)の世界観である「心・事・物」によって現れる「名・ミョウ」の本質を次の様に述べている。
 ………「両界曼陀羅のうち、胎蔵界大日中に金剛大日あり。その一部「心」が大日滅心(金剛大日中、心を去りし〈力〉部分)の作用により「物」を生ず。物心相反応動作して「事」を生ず。「事」また力の応作によりて「名・ミョウ」として伝わる。………
 胎蔵界曼荼羅は「本質と存在」を現す「身体」にほかならない。 
 胎蔵界曼荼羅は、エイドス(形相)を表出するアナロゴン・身体類同代理物のことで素語理論では「素語」=「形態素=意義素」である。
 金剛界曼荼羅は「法則・規則・規範」という「悟性の範疇や原則」のことで「分析的にして綜合的」である。三密の理法とは【しんくい:身・口・意】で下記の図の「言語の成立原理」を説明したものである。
 ここに絶対的・超越的(宗教的)と相対的(科学的)知識・知性の二つの観点が存在するかのごとく見えるが、実はここには「信仰」や「宗教儀礼」が入り込む余地は全くないのである。

        「真言」の世界観を示す両界曼荼羅の図式 (筆者)
                            
        金剛界曼荼羅   真言   胎蔵界曼荼羅
         【い・意】  【く・口】 【しん・身】
        ヌース(理性)   ロゴス  エイドス(形相)

 

 

 

         人間主体から創成される真なる言語
                 
 ……… 「心」は「事」によってあらわれる。「事」を離れて「心」を察することはできぬ。「事」と「名・みょう」の関係は、「事の重畳複積して、単箇の事々でなく、単箇の事々とは全く別になれるものが「名」である。つまり酸素1原子と、酸素のみながら3原子重複せるオゾンと、作用行動異なるごときものと同じである……………

 南方熊楠曼陀羅に対する思考過程において「心界」とは「考える・欲する・感じる」世界で、人間の心が「物=物界」に接するところに「事」の世界が発生する。その「コトの世界」には、どんな働きの法則が存在するのかを考えると、そこには人間の心が成立させた「コト」の因果律に基づく連続する「事象」が一つの筋道をつけて派生展開させる根源的な「名」の姿が観えてくるといっている。
「物と物」の関係は客観的な法則性の世界である。ココロは主観と客観が同居する世界で「感情や本能を伴ったロゴス・理性」の立ち上がる世界である。心と物の重なるコトの世界は「主観と客観の交差して交わるところで、そこに因果律が条理を建てて有機的な筋道をつけて展開される。その展開の中から言葉の原質的な人体語の概念が最小のレベルの言語素子として組み立てられると考える。筆者はこれをアナロゴン・身体類同代理物と呼称する。

 熊楠は「名.ミョウ」は個々の「単語」ではなく、単語を構成する「言語素子」つまり、単語レベルの意味概念を構成する、さらに小さな単位である「要素」=「言語素子」のことだと言っている。つまり言語のレベル単位で最小の元素的な「意味の構成要素」に対し、これを熊楠は「名」と呼んだのである。図において熊楠は「名」は「印」を結ぶと説明している。「印」とは胎蔵曼陀羅図の中心に置かれた、宇宙の萃点を表す大日如来像の、その上段の遍知院に唯一、仏像ではない三角形の抽象記号がシンボライズされて描かれ、その中に「一切智印」の文字が書き込まれている。
 熊楠は「名・ミョウ」は智によって「印加」されていると図で示しているのである。
 心は本来、白紙状態で、感覚的印象である経験が、外界から感覚器官を通じて「印加」され、これがすなわち「認知」「認識」現象である。認識は経験・体験の集積を人体の器官の身体的レベルで概念化して「印加」したことを意味するのである。
 「一切智」とはこの「印加」を受容可能とする白紙状態の身体と心が一元化して把捉する「智」そのものを指している。自然への問いは、理性の働きが不可欠である。この問に対して自然がどんな答えを与えてくれるかは感覚的経験を抜きにしては全く論じ得ない問題であるからだ。
 熊楠は西洋のデカルト以来の近代科学である主体と客体を分割し、物と心を分離して観察する二値的二元論の主体と客体との対比による科学的な客観世界を深く理解すると同時に、東洋の主客一体化・物心一如・時空の一元把捉、そして、因果律と因縁律の交差する条件作用の理解を、胎蔵・金剛二つの曼荼羅によって直感し理解しているのである。
 金胎両曼荼羅の分離を一つに融合する大日如来の一元的な宇宙観を洞察すると共に、あらゆる世界に位置する一切の存在が本源的な「ことばの要素=名」によってその実相が出現するのであると、真言密教の基本教義の中から言語の本質を読み取っているのだ。
 西欧の心身二元論においては、思考やカテゴリー化などの概念形成は心のみが行い、「身体」はそれに従属する低いレベルの価値しか与えられてはいなかった。しかしながら思考や概念形成に働く身体の重要性が認識されて以来、心と身体が対立するという図式だけでは捉えられない「因縁律」が存在する。
 カテゴリー化は概念形成にはたらく認知の様式であるが、和語における言語の身体化された概念は次のカテゴリーに分類することが出来る。
 つまり身体の部位そのものの形態と、それが時間の中で参入される投企要素が、因縁率を発生させ、因果律の中で新たな条件が動的な方向性を持って連結派生し、ラングの規制枠の中でパロールの力(想像力)によって新たな概念を構造化するのだ。
 つまり和語においては、単語レベル(動詞・名詞)で穏喩・隠喩が形成され、階層的に上位階の「節・文」にリンクしながら多様性を持って述語・文章・会話・芸能・文学・芸術へとイベントを遂げるのである。

 4-4 言語の爆発

 日本語は槍や弓矢を持った一人の天才的能力者の思惟によって一瞬のうちに発明されトップダウンが行われた。ちょうどアインシュタインの相対性原理が、一瞬の閃光を放つ光の中で「悟りを得た」のと同じように、言語爆発が彼の脳内で虹色に輝いたのである。
 真言密教胎蔵界曼荼羅の諸仏の背面は言語誕生の爆発の閃光が虹色に描かれている。


              【中台八葉院】


 胎蔵界曼荼羅の中心に描かれた中台八葉院は、言われているような「蓮の花の台座」などではなく、大日如来から言語の虹色の光が八方に今まさに広がろうとしている。この極彩色は言語の「音韻と多彩な意味」を表しており、また言語の実践を伝播させる役割を持つ行者として四如来の間に四菩薩が描かれている。
 曼荼羅は言語の爆発(誕生)をシンボライズして描いている。そして図の中心に座す大日如来は「アートマン」で、爆発の振動であり核の波動を生みだす「叡智=梵」である。
 「素語」は実態ではなく「原理」を構成し構築する「概念の束=スキーマ」で、目には見えない波動体で「智の形態」が鋳型化されたものである。
 アナロゴン・身体類同代理物と言う実存体(普遍的類同代理物)の意義と意味の放射を「得智」することの出来た偉大なな言語創成者の叡智が「言語脳=左脳」の中で閃光を放って日本語が創成されたかの様である。如来や菩薩や諸仏の背光はこの言語爆発(誕生)の一瞬の彩光が放射状に諸仏の背面に描き出されている。
 宇宙世界の存在認識は、ミクロのコスモスである自分の肉体の認識によって概念の核構造が抽出される。人体の身体機能の認識能力によって、自然の複雑に広がるカオスの混沌世界に対し、素子レベルの言語記号が、自己増殖的に自らの身体に対して言語を組織化し、そこから宇宙の混沌を整理して対象の存在形態を理解可能とする独創的で効率的な記号組織を構築したのである。
 わが国で真言密教を開いた空海は、驚くべきことに著書「吽字義・うんじぎ」で、梵語の「ア音」の「字義」という究極のメタレベルの言語の本質「真言」に迫っている。
和語における「ア・a」は、自称の人称代名詞『吾』であるが「存在する主体」が自分自身であると言う自我の覚醒を表す知覚形態を「ア・a」の母音 に記号化されている。
 「ア」は存在する主体である自分自身が世界を認知し認識するという原始生活からの離脱を始めた初発の原点に智を持つ人間そのものの 存在を表徴化したのである。
人が自分自身の身体と言う現象をどう捉えてきたのかと言う大きな問題をどの様に解き明かすのか。人間は世界を解釈する主体『ア・吾』として存在する。人間が他の動物と根本的に異なるところは、身体の周辺を認知し認識することか ら出発し、やがて周辺の事象から敷延して天空に至る世界像を形成する為に、その身体性と人間学的認識に基づく経験の集積を特定の意味 概念として記号化する。
 意味は意味付け行為によって発生する。意味は静的な事象ばかりではなく事態が推移する状況の中でも派生展開して因果律と因縁率の参入による世界認識を「律」として意味の文法体系に記述する。
 「ア」は存在する自分自身の総体を「ア」の母音音節で表徴したものである。「ア」は自称の人代名詞「吾・ア」「我・アレ」に展 開されている。二音節結合が基本形になっている和語独自の名詞構造は、CV型開音節の音節結合によって、意味概念が構造化されている。この意味構築の法則は、父と母の結びから子供が誕生するという、生命体増殖原理からの学習であると考えられる。この結合のシステム の認識が言語構築の基本的な法則性に関与していることは、あらゆるレベル単位の言語記号は、その接合と融合によってのみ言語が構造化 されると言う法則性の軌跡を示しているからである。
 言語は部分と部分の結合と融合により新たな派生因子を生産し、新しい付加的な要素を自己増殖しながら全体を構築する。和語において は既に単音節の形態素子自体に「イベントスキーマ」としての動的で派生的な膠着志向因子が存在し「カル現象」と言う有機的な概念連 鎖現象(同音異義語の誕生)が行なわれる。

 4-5 インドラの珠網

曼荼羅は因陀羅(インドラ)の珠網を発展させたもので、人間の認識の根源と言語の意味のシステムの複雑さを原理的に絵画や文字や道 具と言う「認識の原材」によって人間の認識のシステムとその本質を「悟るという方式」で一つの到達を理解できる様に図式化したもので あると、筆者は考えている。
門外の筆者などには到底理解の及ぶべきも無い密なる世界である「宗門の教え」を極める道程は、厳しい修行によって行われている。
空海は【第九住心】で、インドラの珠網を引き合いにして語る。(注・住心論)
○………「一珠の中に、一切の珠を入れようとも、ついにこの一珠をい出ず。一切珠に於いて一珠を入れようとも、ついにこの一珠をいでざるなり。故に知んぬ、十方の一切珠は即ち是れ一珠なることを………
 これは言葉の最小レベルの音節を珠と見立てて条理の網目にはめ込んで、その意義の珠が意味文法の規則の条理から決してはみ出さない「音図体系」のことを述べたものである。
 古代ヒンズー教の因陀羅(インドラ)の珠網と言われるものは、一枚の網をこの世の全世界と観たてて、その網の目に幾つもの珠を一面に取りつけ、その一つ一つの珠がこの世界を様々に映し出し、そしてまた全ての珠と珠とが互いに映し合って全世界がその珠網のネットワークの中に、連関する有機的な総体として納まり、同時に珠網全体が世界を照らし出すと言う、宇宙を把捉する「言語」の機能の哲理を理解し易く説明したものである。

 「物と物」の関係は客観的な法則性の世界で、ココロは主観と客観が同居する世界で「ロゴス:理性」を操る脳に住む智慧の力のことある。心と物の重なるコトの世界は「主観と客観の交差して交わるところで、そこに因果律が条理を建てて有機的な筋道が展開される。
 その展開の中から言葉の原質的な人体語の概念が組み立てられる。又身体器官が感じ取る感覚や感性が客観的な形態を把捉して一つのまとまった概念に抽象化する。
 言葉は身体部位とココロ(脳内に存在するロゴス)が直結する身体感覚の中で具体性を構築し構造体としての機能と概念化という意味の表徴構造を音声で記号化し組みたてられる。
 音声と言うココロに隣接して重なる咽喉から発せられる「オト」を「コトダマ・言霊」と古代人は認識していたが、心が因果律の筋道を経てて物事を有機的な道具立てをする世界が言語世界である。
 この言葉は、世界に存在する全てが互いに連関して成り立つ一つの総体として捉え、同時に又微細な生命体の営みにおいてすらも、そこに大宇宙に連関する因果律の深遠な摂理で繋がっていると言う、一つの「理解」の仕方を達成する行為が「一切智」であり,達成し得た人間が「一切智者」なのである。
 東洋の因陀羅(インドラ)の珠網の哲理と、西洋の実証主義が希求する近代科学との接合域で、有から有へと連鎖する因果律の波動世界の探求こそが南方熊楠の追い求めた世界であった。
 「心と物」の接合して重なり合うところが「コト」である。物と心が融合を遂げる内的な上位界の因果律が即ち「縁・エン」であり、人間が自然界へ向き合う接合の場を「縁側」と呼ぶ。和語の特徴は、母音の連続を禁止し、単体の母音は常に語頭に立ち語中や語尾には数例を除いて、決して使われることはないという厳格な「規則」という合理の道筋を立てている。
 曼荼羅は単なる佛・菩薩の集合体ではなく、如来・菩薩の居並ぶ、聖なる胎蔵界曼荼羅世界の中に、俗界の鬼神や精霊までも包含させている。胎蔵界曼荼羅はカオスと聖なるものとを、渾然一体化させて、この世の現実世界に連関する総体の機能システムを「ハルモニア」として胎蔵界曼荼羅に描いている。
 一方金剛界曼荼羅胎蔵界曼荼羅の中の如来・菩薩・明王の三十七尊のみを整理して
その中心に大日如来を据えて四界の系列に区分けして統合させている。
 お経の「経」とは、織物の縦糸のことで、動かない不変の真理を表し、インド語で「スートラー=糸・紐」と呼称し「本を閉じる」という意味から宗教儀礼を規定するもの、と言う意味に使われている。『大乗仏教経糸のように動かない教えとは何か』、『空海が真得した「言葉」の実相は何によって出現し、何を導びき出そうとしているのか』。
 言葉を発するということは、言語概念の世界を創っているということで、全ての問題はこの「認識が形成する概念」の中に存在している。『認識がどのようなシステムを設定して、意味概念を構築し「ことば」に構造化させているのか』。『言語創生の原初の「認識」とは一体どのようなものであったのか』。これらの質問に対する答えを、思想家の南方熊楠は「物・心・事」の三密の理法と西欧の二元論的思考法を用いて根本認識のメカニズムを解き明かす。
 言語は法則ではなく、規則で構造化されている。この規則は織物の縦糸のように重要な「経・スートラ」で、これ無くして布は織り上げることはできない。大乗仏教はこの不動の「経=規則・枠組み」を基に、横糸の六波羅密の般若を絶えず経糸に通して、これを筬(おさ)で叩き続ける、修行という厳しい「般若業」を課しているのだ。

 4-6 ギリシャと東洋のロゴス

 「ロゴス」と言う言葉は、ギリシャ語の中で最も多義的な語で「言語・対比・尺度・定義・概念・思想・法則」などの意味に翻訳されるので、極めて包括的で便利な語である。だから逆にロゴスを用いた思想に関わる説明文は特に判りにくくなる。
ロゴスの持つ「法則的・論理的・規範的」性格は、自然界に存在する「物」が持つ法則性に対応している。自然界に向き合って平行的・対置的に位置付けされるロゴスは、主観と客観の統一体、即ち人間の身体という「モノ」とその身体の一部 である脳から分出される「精神の働きである心」との合一によって、ロゴスは成立することになる。
ロゴスは公共の法であるとともに自然の運動変化の法則であり、同時に魂の深みにおいて見出される真理形成の規範でもある。然しながら、ロゴスと世界は同一ではなく、主観と客観の統一は内側において対立を含むものであるが故に、ロゴスは仮想の世界や現象 の世界に対して否定性を持って立ち現れる。それ故に「ハルモニア」という分裂を阻止する叡智が必要となるのだ。
ソクラテスはこの否定性をアイロニーとして用い、人々に無知を自覚させ、真なる智への愛を呼び起こし、それによって共同にロゴスを分かち合う「ハルモニア実現への模索」を哲学の課題とした。
 東洋におけるロゴスとは、大乗思想の曼荼羅の中核に置かれる「大日如来」であり、絶対者「アートマン(梵brahmanブラフマン )」即ち自分自身の根本主体の自覚作用であるところの、空なる絶対者「智慧」への覚醒(めざめ)を指す。日本におけるロゴスの学は、この大乗思想を学んだ空海真言思想である。

 4-7 「唯識」悟性の哲理

世親(ヴァスヴァンドウ)の唯識三十頌における認識の問題で、彼は「唯識思想」を次のように説明する。「世界のあらゆる事物は、心の本体なる「識・梵」の働きに基づく仮の現出にすぎない」という。この仮現を蔵するものを「アラヤ識=蔵識」と名付けられ、この「識」が行動を縁として現象するときに現実世界のもろもろの表象が現 れるとした。
 この現れたものが「意識面」であり隠れたものが「無意識面=蔵識」で、これが行動を媒介として意識化すると説明する。この意識が対象界を身体の各部位で構造化させ、次のように六分類で説明する。
 眼識(色)・耳識(声)・舌識(味)・身識(触)・意識(法)の六識。

 これらの多様性を統一するものが「自意識」で、自我を構成する「末那識・manana」、即ち自己自身を対象化する「客観」という自我の 覚醒である。自己の中に主観と客観が互いに依存し合うこの「合一の道理」が即ちアラヤ識で、まさにハルモニア・調和の意識統合である。
 ① この相互依存の道理がわからずに煩悩で迷っていると、個々の現象が孤立した実体と考えてしまう。これを「遍計所執性」と呼称し、二値的に個別に不調和に存在する見方である。
 ② 全てが相互依存していると考える。これはハルモニアではなく「依他起性」で、実体を否定する見方である。
 ③ 実体を否定し、同時に個別の存在をも観るという「着定」すなわち「綜合・ジンテーゼ」である。これを「三自性」という。
 これは明らかに、○肯定→ ○否定→ ○綜合 の弁証法である肯定の三段階である。
ここまでは、○テーゼ→ ○アンチテーゼ→ ○ジンテーゼ  と、ヘーゲル弁証法と同じである。ところが、ここからさらに、否定の三段階、即ち「三無生」が存在するという。
  ①分別性の認識に対して、現象には実体がない。「相無性」
  ②他依性に対し、全ては相互依存によって生ずる。「生無性」
  ③真実性に対しては、本来は空であり、仮の現象である。「勝義無性」
これを「三無性」という。ここにおいて「三自性」と「三無性」をさらに綜合して「全ては因果=相互依存」とし、因果による識の変化に過ぎないのだとする。

 般若心経の哲理は、実にこの否定の弁証法に立ち現れる「空」の認識に他ならない。
 相互依存という因果律によって世界が立ち現れるのは、全て意識の作用によるものと断定するこの弁証法は「唯識論」である。
 わが国におけるこの唯識思想は元興寺の「道昭」によって伝えられた。この弁証法の段階を辿って最後の唯識性に到れば一切の煩悩が消 滅し、真実の悟りが得られるとされていて、これはもはや信仰ではない。自力で到達点に達するためには、単に頭でこの道理を理解する(理解・リゲ)するのではなく、禅定という修行の実行によって体得(行 解・ギョウゲ)することが必要であると説かれ、禅門の奥には厳しい求道の道が待ち受けている。

 4-8 意義と意味を生み出す「萃点・すいてん」

 世界の中心にある我が身『ア』は、自称の人代名詞「吾・我」であるが原意は、この世の中心に存在する者・自我を表す。「ル」は、現在進行中の状態・存在する事象の形式的概念で、英語のingと同じである。「アル=有る・在る」はこの二個の「素語」の結合によって動詞の語幹の意味と動的な「テンスと局面」が「ル」によって構造化されている。
 胎蔵界曼荼羅図の中心に座す大日如来は様々な言葉で捉えられている。
 即ちインド哲学では【叡智・アートマンブラフマン・梵・唯一者】と言われ、仏教では、【涅槃・無我・如来像・法性・真如】と称されるが、本質的には皆同じで、南方熊楠はこれを脳が思考判断を実行する「主体認識の知覚集中作動基点」と観じ、これを「萃点・すいてん」と呼び、空海の「真言如来」の語を、自分の科学思想の観点から「言い換え」をしてみせたものと考える。

『日本語の意味の解』”意味の解析とは”

パラドックス

 3-1 ソライティーズ・パラドックス 

 パラドックスとは、正当な推論方式に基づいていながら、一般に認められている結論とは反対の結論に至るような、自己矛盾がでてしまう論述を言う。
 この自己矛盾露呈説明を利用して、論敵の矛盾を暴き出すというやり方がイギリスの哲学者バートランドラッセルのフレーゲ理論の攻撃に用いられて、その巧妙な手口が有名になったことがある。しかしながらこの方法は攻撃ゲームのようなもので、述語や定義を立てない不確定な単語の意味を弄ぶだけで、定義も立てずに、Aが正しいかBが正しいかという「述語形式」だけが問題となるので、本質の問題や真理は棚上げされ、議論がやがて壁に当たって空中分解する虚しいゲームである。

 小山(ソライティーズsorites)はギリシャ語のソロスから派生した単語で、英語はこれをヒープheapと言う。この語は山と言う程の意味はなくヒープは「小さなてんこもり」日本語で言えば「積み重ね・塊」或いは「マウントされた塊・小皿いっぱいの小麦の盛り上がり」といった程度の「ヤマ盛」を意味する語である。本来「砂山のパラドックス」はパラドックスではなく、ヒープと言う単語の意味内容に対するパズルである。皿に盛った小麦の粒の数の線引きのパズルである。
 ヒープという単語の無限定な曖昧さに対して、コトバ遊びとして「数を取り込んだ謎かけごっこpuzzle」が行われたが、それが言語学や論理学の「命題=定義」の問題として学者が大真面目に取り上げる問題にまで発展した。
 小山のパラドックス( paradox of the heap)は、述語や単語の曖昧性から生じるパラドックスの一種である。これをソライティーズ・パラドックス(Sorites paradox)とも呼ばれ、砂の山があったとき、そこから数粒の砂を取り去っても砂山のままだが、そうやって粒を取り去っていったとき、最終的に一粒だけ残った状態でも「砂山」と言えるか、という問題である。此れが小麦になったり、禿の髪の毛の数の問題にすり替えられたりして、面白可笑しくパズルが語られてきたのである。
 実はこの砂山のパラドックスは「スナヤマ」という単語の意味の正体が説明できないという「定義不能」を前提としてこれを茶化して問うている。
 ① 基本的には「スナヤマ」という語がきちんと定義できないために、この問題解決の学問領域は「言語哲学」であるとたらい回しにされて棚上げされている。
 ② 一方数学では、全ての用語が明確な定義を持っている。このパラドックスは不明確な用語を数学的な論理式に持ち込む際に常に付きまとう問題であり、定義不能な不明確な概念は数学では処理ができない。
 論理哲学論考を表したヴィトゲンシュタインも論考の果てに行き詰まったのは、言語記号の意味の究極の定義「要素命題」で、世界に対し投影的関係に立つ「文」を構築する有限個の要素的な「原記号=意味の弁別体」の「メタ記号」の未発見で、彼の論考は破綻し頓挫したのである。

 言語の意味と数学の内観
 人間は言語によって「意味される対象」や「限定される対象」を語の最小の意味の弁別体である「形態素子=素語・ソゴ」によって単語を組みたて、さらに単語と単語を合わせで節や文という階層構造に組み立てて、その人間活動によって引き起こされた内面的形質をラング「言語体」と呼称している。もちろんこの単語は動詞や名詞だけではなく全ての品詞のことで、辞を含むことは言うまでもない。
 この脳内で働く内面的形質である「ロゴス」の存在がなければ人間活動の外面的形質の表出は有り得ない。ものを考えるとき人は言語を用いて、自身の経験と体験によって積み上げられた知識の集積を言語化して様々な認識活動を行っている。
 一方、数学では専ら内観または内省的思考によって、ものごとを数理の抽象によって「悟る」という方法で理解しようとする。
 故に、意味を取り込めない数学であるがゆえに、言語の本質や実存(本質に対置する物の存在)に対する判断が全くできないのである。数学は「正否」のみの世界であり言語によって数学記号が初めて成立するという階層構造の枠組みから抜け出すことはできない。数学には言語に対する内観があるなどといった考えは幻想に過ぎない。何故なら「内観・うちをみる」という単語の意味の定義を数学記号で行うことは不可能であるからだ。

 3-2 ソシュールパラドックス

 ソシュールを賛美する数多の言葉を並べると、「言語学の巨匠」・「近代言語学の父」・「構造主義への道標」・「記号学の提案者」・「言語哲学者」等々。
 ソシュールの『一般言語学講義』はセシュエとバイイによって、ソシュールの死後に、本人の「出版許諾の遺書」も無しに勝手に編纂されたものである。講義を書きとった大学ノートは他の学生から借りたもので、セシュエとバイイは実際には講義には出席していなかったという驚くべき事実がある。この本が出版されて、盲目的な信奉者らの賛美の大合唱が湧き上がった。その後、この講義の受講者の一人が書き残した『コンスタンタン氏のノート』が発見されて話題となった。その講義録に次のような記載がある。
   ……… 『語はシニフィエ(所記・signifiè)がなくてもシニフィアン(能記・signifiant)がなくても存在しない。けれどもシニフィエはそれぞれの言語のシステムにおける項の相互関係を前提とした言語的な価値を要約したものに過ぎない。別の言い方をすれば、言語には差異しかないと言う原理である。差異と言うと二つの実定的な項(termes positifs)があって、その間に差異があることを思い浮かべる。しかしながら逆説的なことに、言語には実定的な項の無い差異しか存在しない。これは逆説的な真理(パラドックス)である。』………
 ここにおいてソシュールは「逆説的」という「曖昧で多義的」な言葉を使って講義受講者らを翻弄する。彼のこのパラドックスを理解しやすい言葉に引きなおすと、次のようになる。
 「実定的な項があるからこそ差異が確認できるというのが真理なのだが、少なくとも言語においては意味作用やシニフィエシニフィアンについて語る限り、それらは「実定的なもの」とは言えない、にもかかわらず、そこにあるものは差異しかないのである」、と。
 彼は言う。
………シニフィエシニフィアンの関係から項そのものにたどりつけば、対立について語ることが出来るだろう。………厳密に言うと、記号など無く、記号間の差異しかない。………と。
 これこそがパラドックスである。項が存在しない言語に仮想の項の存在を立てて、その仮想実体の上に対立関係を見い出す。
 ソシュールは「関係」と「差異」と言うコトバの多義性と曖昧さを利用して論点を霧の中に閉じ込める。つまり逆説の逆説がさらに逆説を生み出すと言うパラドックスの迷路へ受講者を誘い込んでしまうのだ。
 これ以上ソシュールについて語ることは止めにしよう。何故ならば、彼の「言語記号の恣意性説」には二重のトリックが隠されている事が判ったからである。
 ソシュールが何故パラドックスのトリックを使って受講者らを煙に巻いたのか。その答えは、「意味の定義」ができない形而上学という「単語の意味を要素分析ができない」非科学的な思弁の学問だからである。
 シニフィアンsignifierはフランス語の 動詞「意味を表しているもの」であり、 シニフィエsignifiéは、「意味されているもの」で、これを「言語価値を要約したものだ」と彼は説明する。だから「意味を表しているものは 言語価値を要約したもの」ということになる。
 これを判りやすくすると「意味=(言語価値=意味を要約したもの)」故に「意味とは意味を要約したもの」と不可解な言葉を並べていることが判る。言語学の目的は単語の意味を要素で定義をすることである。
「意味されているもの」「要約」「表現」「内容」などといった「ボカシ」のフレーズで学生を惑わしているのは「語の意味」がよく判らないからパラドックスを利用したのだ。

 意味論が未だに言語学から取り外されている現状を見るとき、どうして彼を非難などできようか。彼は自分で全く本を残していない。少なくとも本にしないことで彼は学問に謙虚に対応している。この清らかさは言語の本質を見い出せない絶望感から来ているものと思われる。彼が言語学に興味を失ってから何をしていたのか。それは晩年に詩人に宛てた質問状やアナグラムに没頭したことを考え合わせるとよく判る。

 アルファベットは僅か二十七文字のアバウトな表記記号である。漢字という意味と音韻を含有する数万個の表記記号と比較すると月とスッポンほどの違いがある。漢字文化は言葉の曖昧さを許さない。この点において日本文化は二重構造の調和された言語を使ってバイリンガル的に意味の世界を自由に闊歩することができるのである。日本は漢字文化を巧妙に我がものとし、長年にわたって莫大な恩恵を受けているのだ。
 それに引きかえ、英語は他言語話者からすれば、印刷された単語のスペルを見て正確な発音をすることの不可能な表記体の言語である。そして単語の意味があまりに多義的であるが故に極めてアバウトな感じがする。日本語も同等にかなり多義的であるが、和語と漢語の二つで「複眼認識」することができるので、より曖昧さが小さくなり、判断の適格性をアップする事が可能となる。だから英語の発音が日本人には難しいのである。この二十七文字のアルファベットはシンプルではあるけれども複雑な音韻構造を持つ英語の約五万五千の英単語の意味の分析はこのやせ細った表記体からでは、絶対に意味構造を抽出することは出来ない。このことが意味論を断念させているのだ。
 意味を定義が出来ない不幸な欧米言語学ブラックホールを、誰が埋めるのであろうか好奇心を持って凝視を続けたいと考えている。

 

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第5回 ブログ版『日本語の意味の解』”同音異義語の鏡と屈み」


 『和語』の本質

 さてここから、和語の核心部分に入る。
 『和語』の意味の最小単位(日本語における形態素)は「一音節の音韻」=「形態素=素語」であり、そこに言葉の遺伝子情報が書き込まれている、などと言ったら人々はきっと驚くに違いない。
 それはちょうどデオキシボ核酸に遺伝子の情報が書き込まれていると言う言葉を最初に耳にした時と同じように。
 しかしこの思い込みを解きほぐし疑心を取り除くには時間がかかる。しばらく辛抱願ってこの論理展開に偽りがあるかどうか凝視して頂きたい。

 それでは「カ・ガ・ミ」の音韻が「鏡」の「意味」を表さなければならない「一音節の音声と意味」との間に制約関係が存在するのかどうか「和語の本質」に迫ってみよう。

二 日本語の『本質』

 『鏡・かがみ』の音声と意味との関係を考察してみよう。
 「鏡・カガミ」と「屈み・カガミ」は全く同じ音節構造である。しかし文法上では鏡は名詞であり品物の名前を表す語で活用しない。
 一方「屈み」は「カガ」の語幹に連用形「ミ」がついた「動詞」で、背中を丸めて前に屈曲する人の姿とその行動の状態を表す語で、この二つの語は全く異なった使われ方をする別語である。
 ところが実は「鏡」は「屈み」の語から派生して「名詞化」した語なのである。この理由を証明する為には、一音節のそれぞれの語をまず解析する必要がある。

 和語の「カ」にはどんな意味があるのであろうか。「カ」の意味は辞書を引くと ①接頭語で多くは形容詞の上に添えて。語調を強め、又は整えるもの。
  「――(香)青なる」「――(迦)ぐろき髪」 ②接尾語「すみ―」「あり―」 ③係助詞 ④代名詞「彼」 などと記載されている。しかしいくらこれらを眺めて考えぬいても「カ」の意味を割り出すことは困難である。 
 
 『隠された意味を取り出す』

 一音節語(素語=形態素)を解き明かすには、ツール(道具)が必要になる。道具がなければ何も見えてこないのである。デオキシリボ核酸の構造を見るには顕微鏡が必要な様に。
 小道具として【キ・サ・シ・ス・ツ・ヒ・ミ・ム・ラ・リ・ル・レ・ロ】を検証する語の下につけてみて、類似の意味形態がどのように構成されているのかを対比分析すればおのずから「隠された意味」が浮かび上がってくる。(後述[ル]の項をご参照)

 『カ』の意味を小道具で検証してみよう。
 あらかじめ、「堅し」と言う言葉から「カ」=「堅固・強固」の概念を持った語と想定して「カ」を用いた語を対比分析してこの解釈が妥当かどうかを調べてみよう。
「カキ・蛎・垣」=「カ・堅固・強固」+「キ・取りつき食い込む(乙類・キの意味は既に検証済み)」の構成である。蛎は岩などに強固に取りついて手で取ろうとしても簡単には剥がせない。垣は垣根とも言うように土の中に強固に食い込ませてあるから防護の役割を果たすことが出来る。蛎も垣も同じ意味の「強固+取りつき食い込む」を表す語である。
 「カサ・笠」=「カ・堅固・強固」+「サ・前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」の構成である。こうもり傘でも菅笠でも一定の強度を持ち、前方斜め下方向へ進む傾斜があり、笹の葉形の様に先が尖った形に出来あがっている。
 「カシ・樫」=「カ・堅固・強固」+「シ・下・棒状」の構成である。
 「カシ・牁(船を繋ぎとめる杭・もやい杭)」=「カ・堅固・強固」+「シ・下・棒状」の構成である。
 「カス・粕」=「カ・堅固・強固」+「ス・抵抗なく通過」の構成である。抵抗なく通過したものは「液体の酒」である。つまり、もろみを麻袋に入れて強力に圧をかけて酒が「ス・通過」したものが「カス」で水分のないカスカスの値打ちのない物である。
 「カツ・勝つ」=「カ・堅固・強固」+「ツ・四段」の構成である。崩れは無く堅固・強固な状態を保つ意。
 「カヒ・貝・卵・飼ひ・買ひ・蚕」=「カ・堅固・強固」+「ヒ・四段」の構成である。堅固・強固にする。廻りを固く閉じて防御する意。(詳細は後述)
 「カミ・神」=「カ・堅固・強固」+「ミ・身(乙類)」の構成である。堅固にして強固なるものの意。(詳細後述)
 「カム・噛む」=「カ・堅固・強固」+「ム・四段(甲類)」の構成である。上下の歯で強固に挟み砕く意。
 「カラ・殻」=「カ・堅固・強固」+「ラ・同一物が寄り集まって出来た集合体」の構成である。

 
『カル』現象

 「カル=刈る・枯る・固る・軽る」=「カ・堅固・強固」+「ル・四段」の構成である。
 例えば、草を固い刃物の「カマ・鎌」で「刈る」とやがて草は水分が蒸発し、「枯れる=枯る」状態になる。そして時間が経過すると、乾燥して「固くなる=堅る」そして持ち上げてみると「軽る・カル」になっている。これを私は「カル現象」と命名する。「カル」というラングが様々なバリエーションを広げていることが理解される。この現象を見て「音声と意味との関係は恣意的である」などと言うのは妥当ではない。
 この様に日本語はかなり理屈ぽい言葉で、基本の「カ=堅固・強固」+「ル」の意味構造を安定的に保持した状態で、意味を連鎖的に拡張して展開させている事が判る。
 日本語の発生の草創期に思いを馳せる時、この思慮的に意味を多義に派生せしめて八方に広げていく「カル現象」は我国特有の言語形態で他にも同様に連鎖展開する「サ」「ホ」「マ」など幾つもあり、日本語の本質を示唆する言葉の「遺伝子情報」の一つとも言えよう。
 日本語の「源流」を考察する時にはこの特質を考慮に入れて正確な言語対比をすべきものと考える。
 「カル」はさらにもう一つの様相を連鎖展開させている。
「カル=駈る・狩る・借る」の語を考察してみよう
 「駈る(追い立てる意)」=「カ・堅固・強固」+「ル」の構成で、「カ」の状況にあるのは獲物を追う人間で、「チカラ=力」を出しっぱなしにしている状態を示す語である。筋肉に力を入れると身体が「固=カ」になる。「アカ・赤」は「ア・吾」+「カ・堅固・強固」の構成語で力むと顔が赤らむ。だから活用語の「あかり・あかる」が派生して存在するのである。「赤ん坊・赤ちゃん」は力いっぱい泣いて自分の身体を赤信号にして母親の注意を引き付けているのである。
 「チカラ」は何故か漢字で「力」の文字を使う。擬音語で「カチカチ・カンカン・カラカラ・カタカタ・カリカリ」など石や金属などが触れ合った時に発する音の印象が「カ・kwa」「カ・ka」であったと考えられる。
 石器時代は人類の歴史の中においては殆どであると言っても過言ではない。鉄を手に入れてからの年数はたかだか三千年である。永い永い石の時代に言葉が作られたことを忘れてはならないのである。
 話がそれたが、獲物を「石持て追う」姿が原始の「駈り・狩り」であった。
 稲を刈るは「米という獲物・収穫物」を石の手鎌で「カル」のであり「狩り・駈り・刈り」は意味的に連鎖した語で同じ範疇の語彙であることが理解できよう。
 また「借り」は、これも「カ・堅固・強固」+「リ」の構成である。人の所有権に対して「力」を出して強固に一時的に自分の自由にさせてもらうことで、「借り」の基本概念は自分が強固であることを誇示しなければ、他人や銀行は、簡単に物や金を貸してはくれないと言う相互の力関係を示す言葉である。
 社会哲学的とも言える「信用創造」の初発の原理原則を示す言葉なのである。
「カ」が堅固・強固を表す意味を持つことはまだいくらでもその証拠を山のよに積み上げることが出来る。     (「カ」に付いての詳細説明は後述を参照)
 
 さて話を『鏡』に戻すと、「カガミ=屈み・鏡」は「カ・堅固・強固」+「ガ=堅固・強固な状態には至らない、中途半端なガサガサ・ガラガラなどの様に少し障りのある不完全な堅さや、力が少し足りない状態を表す濁音語」+「ミ・四段」の構成である。 
  「カミ=力を入れて身体を硬直する・上顎と下顎に力を入れて噛み」ではなく「ガミ」であるから「少しだけ身体に力が入った状態」を表す語である。だから「前かがみ」になるのは、人は後へ「かがむ」ことなど出来ないから「かがむ・かがみ」で「身体が少しだけ固くした状態で前方へ屈曲した姿勢」を表わした語である。

『ガ+ミ・ム(甲類)』の用例は「あがむ・崇む」「いがむ・怒む」「おがむ・拝む」「しがむ」「せがむ」「とがむ・咎む」「ながむ・眺む」「ひがむ・僻む」などは全て「濁音」で人体の動きや体形に、力の入り具合がやや抑え気味にした感じの表現となっていることが判る。これらの語は何れも「前方へ身体が屈曲した状態」の意を含む言葉であることが理解できよう。
 「鏡」が「屈み」から派生した理由は「水鏡」に対して身体を「カガメテ・屈めて」覗き込んでいる姿なのである。
 大陸から錫と銅を溶かして     「で」削除              で          作られた鏡が渡来する前は勿論のこと手鏡の無い場合は、器(ウツワ)にいれた水に顔を映して「水鏡」として利用していた。何故そんなことが判るのかと言えば「ウツハ・器」「ウツル・映る」の言葉があるからである。
 「ウツハ」の語を検証してみよう。
 「ウツハ・器」=「ウ・∩形・屈曲した形状」+「ツ・水」+「ハ・張(張リの語幹)・端」の構成である。「ウ・∩形」は湾曲した器の形状を表す語である。
 「ウ」の用例・「浮く=湾曲した形状の物(お椀・丼・舟)などは水に浮く」「畝・ウネ=土を湾曲に盛り上げたもの」「浦・ウラ=浜が湾曲している」「瓜=湾曲して盛り上がっている物」「潤む・ウル・ムの語幹=湾曲した物体の表面を覆う」「うれ・末(植物の成長する先端・梢)=柔かな若い枝葉であるから湾曲している」「うろ・洞=内部が湾曲していてぐるりが岩や土で取り囲まれた空間」「頷く・ウナヅク=ウナジ(首筋の後)を湾曲する動作」「鰻・ウナギ=体を湾曲させてなぐ動きをするもの」「うたた寝=身体を盾(タタ=盾)とみなして、体が前方に湾曲する姿で寝る=防護の盾が湾曲した=自失の状態を表現する語。だから「うたた」の語意は「湾曲した盾・防御が崩れた形・自失の状態」であるから、うたた寝をすると寝首を取られてしまったり、風邪を引いたりするから注意が必要である。

 こんどは「ツ」を検証する。「ツ」は液体の総称「水・体液・水域・潮水」のことである。「体液が基本で液体を表す=ツ・唾・血・乳(古くはツ音)」詳細は「ツ」の項を参照。
 「うつる・映る」=「ウ・∩形・屈曲した形状」+「ツ・水」+「ル・四段」の構成である。つまり身体を「屈み・カガミ」+「ウツハ・器(水を張るもの=うつはもの)」+「ウツル・水の張ってある方向に身体を湾曲すると自分の顔が映る」。この様に「カガミ」「ウツル」の意味は明解に解読できる。
 「うつそみ」「空蝉・ウツセミ」の新解釈については後編「ウ」をご参照。

  『音声と音韻の違い』

 「音韻・オンイン」の語についてその意味をはっきりさせておかねばならない。
 人が声帯を振動させることにより空気を媒体として音波が空中を伝わり耳で感知できる、その波動を「音韻」と言うが、狭義の意味解釈においては「音韻」に対する概念として、「心理的・観念的要素」の存在を無視した、一回毎に発音される物理的な音そのものであると考える。
 一方、広義の「音韻」は人が発音できる音の中から、有限の数の音を選んで、言葉として相互の意思疎通の用具として使っているその「音の夫々の違いを系統的に調べて物理的な音の単位を規定したもの」これがつまり広義の「音韻・音素」と言うのである。
 つまりこのことは、狭義の「音韻」は単に音の単位を規定しただけの物理的な音声であり「意味」の介在はないと言っているのだ。


 和語の広義の音韻について見てみよう。一音節【サ・SA】について言えば、【S】の子音(音韻)にも【A】の母音にも何らの「心理的・観念的要素」は附与されていない。しかし母音の【A】だけを切り離すことがもし可能であるとしたならば【A】は「ア」の独立した一音節に変貌し「吾・自分・自我」の意味を附与された「素語」となる。しかし「サ・SA」は和語においては既に遥かな古代において我々の先祖と言える人々の社会集団の中で「サ」の音声に対して「前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」の心理的・観念的要素を附与しており、それはちょうど一枚の紙のように表裏一体になってしまっているので、片一方を取外そうとしても全く不可能である。
 だから今日「サ」を個人的にそして恣意的に「円形」の意味に転換させようと試みてもそれは社会が受け入れない限り無駄なことであるし、その望みは馬鹿げた望みと言うことで社会的に容認される事柄ではない。
  音韻と意味との関係が言葉の最小単位である一音節の音韻である「アイウエオ……」四十七音と古語十三音、及び濁音全てに夫々異なる概念が特定されているのである。しかし例外があり、「辞=助詞・助動詞」には「働き」と「働きの概念」があるが意味(シニフィエ)はない。この「辞」の働きの研究は充実されているが【辞】の本源的な観念は脳内にある「ロゴス」によるものかもしれない。この意味からもヒトゲノムの解読が待たれるのである。
 和語では音節が異なれば「語意」も異なるのはごく当たり前である。しかしながらこの事実を、音韻と意味との関係は「恣意的」であるから「一音節」の意味の領域に入ることは「意味がない」と唱える一部の国語学者にとっては、日本語の本質が全く理解し得ないこととなる。

 『言葉の深層真理』

 ロゴスという高次元の能力は「グレートサムシィング」の存在を信じたくなる程のレベルの高い脳内に存在する天与の理性である。前に述べたがこれをコンピューターに例えるなら「CPU・セントラル・プロセッシング・ユニット・中央演算処理装置」と呼ばれている計算機に組み込まれた基本ソフト・OSと同じ意味合いを持ち「脳内にあるロゴス」が言語と一体になって音声を操って仕事をするように、このCPUも様々なソフトを操って仕事を処理するのとよく似ている。
 人間はこのロゴスの働きによってカオスであるこの世の現実世界の事象を、整理され秩序立てられた思推(理性)に基づいて言語化されるのだが、言語を構成する単位的要素として「語彙」が絶対的に必要となる。そしてこの初発の語彙を産み出す為の要因は脳内に蓄積された体験や遺伝情報の中に存在する理性のメカニカルな動機によって、個別的に語彙の選択が成し遂げられていくものと考えられる。しかし、その選択は無制限に自由(恣意的)ではなく一定の枠組みの中で無機的ではなく有機的に進行するものと思われる。この、一定の枠組みの違いが民族毎に異なり、多様な言語地図を地球上に描いているのである。
 日本語の「枠組み」は「CV」構造と言う一音節の枠の中に意味(抽象概念)を附与しその「CV形態素=素語」の様々な組み合わせによって語彙群を構築したのである。
 和語と近隣諸国との言語比較は「形態素」と「形態素」からの出発でなければ意味をなさないことは明らかである。


 二 上代特殊仮名遣

 現代では母音がアイウエオと五つしかないのだが、今からざっと千四百年前の飛鳥・奈良時代の言葉には驚くべきことに、八つの母音が存在していたことが判っているのである。
 三つ多いその母音とは、「エ」と「イ」と「オ」のそれぞれに、二つの異なる母音が存在した、とされているのである。
 そしてそれらを、きちんと使い分けをしていた証拠は、万葉集古事記日本書紀などに使われた万葉仮名(真仮名とも)の「古語十三音(エ・キ・ケ・コ・ソ・ト・ノ・ヒ・ヘ・ミ・メ・ヨ・ロ)これに濁音が入る」の特定語に整然とした仮名の書き分けがあったことが証明されているのである。この『上代特殊仮名遣』の研究は橋本進吉博士の手により大成された。
 この特殊な語には甲類と乙類(橋本博士の分類語)があり例えば甲類の「コ」には「粉・庫・姑・古・枯など他に多数ある」乙類「コ」は「己・木・虚・巨・など多数」の文字によって使い分けがなされていたことが判明し、その甲乙使い分けの理由は、発音が異なっていたからというのである。
 本書では、この分類に関して単なる音韻の相違そのものにはあまり興味はなく、(甲類)(乙類)の意味的世界の相違に最大の関心を持っているのである。
 一説に(甲類)(乙類)の相違を「陰性・陽性」の語を使って説明する向きもあるが私には全く理解の範囲を超えており感想を述べることすら出来ない。
 はっきり言えることは(甲類)・(乙類)は別の素語と言うに過ぎず、単に抽象概念の異相を表すもので、それ故に和語の本質を解き明かす「石のカギ」とも言える貴重な存在なのである。

 国語の科学者
 
 日常使われている言葉に対して無関心でいられる人間はいない。言葉が生活を支え社会を動かしているからである。これほど重要な言葉が一体どの様にして作られているのかを科学的に研究する分野が言語学である。
 和語研究の歴史は大伴家持万葉集歌詞の注記に「て・に・を・は」の「辞」の考察がありこれが我国の言語研究の萌芽とされている。
 しかし本格的な研究の名にふさわしいものは,中世の歌人連歌師たちの歌学からであろう。
 鎌倉時代の鎌倉地内の小庵で万葉集を研究した天才歌学者・仙覚律師は、万葉仮名の分類をして、正しい読みや注釈を行い「万葉集注釈」を世に出した。
 この「歌学」の流れを受けて、江戸時代には大きな研究の花が次々と開いた。
 「あめつちの言霊(ことだま)は、ことわりを持ちてしづかにたてり」と言葉には三つの「理・ことわり」を秘めているのだと、論理的で冷徹な観察眼をもった言葉の科学者が出現したのである。
 それは「かざし抄」「あゆひ抄」を著した富士谷成章(ふじたになりあきら・せいしょう)その人である。
 彼が第一級の日本語研究者である理由は、「言葉の位・くらゐ」の名称で「かざし・よそひ・あゆひ」の三つに品詞分類をなし、そして「名」を別格扱いとした点にある。
 「かざし」は代名詞・副詞・接続詞・感動詞など他の語の上にカンザシの様にこれらの語を置くことから命名されたものである。
 「あゆひ」は人の足の様に「あゆむ」ところから語の下について動きを表す、助詞・助動詞と接尾語もこれに当てている。
 「よそひ・装」は用言の活用を説いたもので「あゆひ」を説明する為に必要な活用の体形を「本(もと)=語幹」「末(すへ)=終止形」「引靡(ひきなびき)=連体形」「往(ましかた)=連用形」「目(めのまへ)=命令形」「来=未然形」「靡伏(なびきふし)=已然形」そして形容語尾の「伏目(ふしめ)」「立本(たちもと)」と和語の活用体系を整然と解き明かしている。
 「名・な」は意味を持つ名詞或いは語幹であるが、助詞や活用語尾には働きや現在過去未来・観念を表す「ロゴス・理・ことわり」だけが存在して意味はなく(辞)と喝破している。
 辞は、単独では文の成分にならないもので、「形式的な概念」を表し、また概念の過程を踏まない単なる形式だけを持つ語である。
 ここに意味を表す「名」に注目しなければならない理由があるのである。言語の究極は「名=意味・抽象概念」であり、「辞」は手足や身体を使った身振りや表情「命令・疑問・危険の合図・物事の状態の形式・喜怒哀楽の働き・現在過去未来の時空の局面」を表す形式で、意味とは次元を異にする辞である。


 『和語の曙』

 日本民族の言語を「和語」と呼ぶ。この和語の概念は、一切の外来語を排除した日本民族と呼べる人々が自らの言葉にしてきた純粋な日本語のことである。
 では、日本人とはなにか、日本民族はどこからこの列島にやってきたのか。現代の日本人の実態はいかなるものか、そしてどんな歴史過程を経て今日に及んでいるのか。
 これらの問題は、遥かにかすむ時間の彼方に打ち消されており、これからも永遠のテーマであり続けるに違いない。
 この列島に人間が住んだ最も古い証拠は洪積世人類の存在であり、なんと約十万年前に遡るといわれている。
 三ケ日・牛川などの古代人は旧石器時代の末期二万年前までのものである。この無土器時代から、縄文・弥生・古墳時代を経て、飛鳥・奈良時代と移り今日に及んでいるのだ。
 考古学と人類学の研究成果としてはっきり言えることは、現代日本人は東南アジア人であるマレー系の血が最も濃く、次いでインドネシア・朝鮮・アイヌ民族の特徴が混在していることがわかっている。
 これらの血が日本列島に入る以前から、この地に住みついていた原日本型人種の中に、外来の血が複雑に混じり込んできたのである。では和語は一体どのような形で形成されたのであろうか。この謎を簡単には解き明かすことの出来ない理由がある。それは民族混血の実体が歴史的に何一つ判らないと言う事実からである。
 国語学の立場から実証的に究明できる限界は、飛鳥・奈良時代までである。
 日本語は近隣の国々とどれほど似ているか、といった言葉の比較研究で、系統論・流入論・成立論などがある。しかしこれらの研究も多義に渡る解釈から結論がまとまってはいない。
 本書では一切「語源」の語は使わない。なぜならば和語の「みなもと」も日本人の「みなもと」も誰にも判らない謎の世界であるからだ。
 あくまでも語の意味を「構成」している「意味の構造」について科学的に類推し集約するだけで、出来得る限り憶測を排除して、和語の実態を列挙するだけである。
 一音節の「素語・ラング」の抽象概念・意味は一貫しており、決して変化することはない。

第三章  『素語』の特定

 初めに注意すべきは、一音節の素語は一つだけの名前を特定するものではないことを明確にしておく必要がある。
 例えば「歯・ハ」は歯が持っているところの様々な機能や形態・形状であるところの「鋭い形状と、切る機能=刃」「挟む機能=鋏・ハサミ」「形状・と状態=端・ハシ・ハタ(上歯と下歯の先端)」「上下の歯が離れる動き=離れ・ハナレ」「擦れる動き=外れ・ハズレ」「粉砕する機能=食む・ハム」「根を持つ歯=ハネ=羽+根(胴体に基が見えないところで繋がっている)」「歯とはぐきの状態=葉+茎=枝の葉」「生え=歯が生える(幼児の乳歯)」「歯に力を入れる=ハカル=手の端(ハ)に力を入れる=計る」など、他にも用例は多数ある。
このように「素語」は「機能・形状・性質・抽象」を表現する「基底的な概念」を持つ語である。
 「ハ」を表現すると「葉が歯茎から生えた歯のように、枝端(エダハ)の端々から葉が生えている」。このように「ハ」は基底語の「歯」から意味展開が四方八方に伸びているのである。「ハ」が「葉・刃・羽・端」の意味を持つが故に「音
と意味との関係は恣意的である」などと短絡的に主張してはならないのである。
少なくとも言葉の意味に関心を持つ立場の人々にとっては事態は深刻となる。

 『素語』とは。
 (1)和語の一音節・素語は、意味形態を・六つのグループに類別することが出来るが、各グループにオーバーラップして連鎖的に意味が広がる語も有る。
 ①人体語. ②形状語 ③性質語 ④動作語 ⑤抽象語 ⑥辞(意味はなく働きのみ)
(2)一音節の『素語』又はその組み合わせによって全ての単語や語幹が構築されている。
(3)「素語」は助詞・助動詞などの辞と結びついて、物や事象の本質的な実態を基底的な一つの観念として保持する二音節の基底語を形成する。そしてこの基底語は多角的に意味の連鎖と拡張を八方に広げて、異なった意味を幾つも創造する「カル現象」を引き起こし、和語の表現力を拡大せしめている。
 (4)素語と素語の結合により二音節語が構築されるが、夫々の素語の意味は消滅したり変化することなく、生きたまま新語を支えている。
 

 『日本語の特徴』

①日本語では、音節が単独で発音できる最小の単位である。日本語の音節は、子音と母音が一個ずつ組み合わさった単純なCV構造【C(子音)V(母音)】である。「カ・ka」「キ・ki」「ク・ku」と、子音が頭で母音が後に付く。 
 ②母音音節は語頭にしか立たない。
 ③母音が連続しない。これを「母音連続禁止の法則」と言う。
 ④エ列音・ラ行音・濁音音節は伝統的な和語の語頭に立たない。また語中にはほぼ一個のみ。
 ⑤和語の基礎的な語は一音節で上代特殊仮名使の音韻も含めて、全ての一音節に特定された意味(抽象概念)が付与されている。
 ⑥二音節語は一音節語の要素が複合して成り立っている。
 ⑦三音節を超える多音節語は一音節語と二音節語の要素が複合して出来上がっている。
 ⑧基礎的な語には同母音が繰り返される。例「コト・モノ・キミ・キシ・ヤマ・ハナ」など。

 

 

 

 

野村玄良・第4回 『日本語の意味の解』”日本語の解剖の仕方』”

日 本 語 の 意 味 の 構 造
 


                            野 村 玄 良
                            

 
 序 章

 意味の解析  

 本書は、日本民族固有の和語の意味構造が、どの様に成り立っているのかを、新手法を用いて多面的に考察を加え、その意味的世界の実態を系統的に解き明かそうとするものである。
 これまで、どの辞書にも書かれていなかった、意味の最小音韻レベルである一音節の「形態素=語の最小構成要素」の抽象概念を抽出し、難解で意味不詳とされてきた言葉にも解析の光を当ててみようと考えている。
 意味論については殆ど国語学では取り上げられなかった。その理由は意味を持つ最小単位の形態素に対応する研究や解析が殆ど手をつけられることがなく、未だに放置されたままであるからだ。これは我国の問題だけではなく、例えばアメリカにおける言語学の概論書においてすら「意味論」の章が全く欠落しているのである。
 この現象の最大の理由は「意味」の世界は難解で複雑で取り組みの方法がなかなか見出せないからだ。
 試みに、意味を持つ各階層の意味的記号レベルで「意味」について考察を加えてみよう。例えば「ヤマ・山・yama」の音声表現の、最小レベルは「音素」で、【子音・Y】【母音A】【子音・M】【母音・A】の四個の音韻によって構成されていることが判る。分解すると、ヤの【A】と、マの【A】は全く同じ音韻(アクセントは考慮に入れない)であるにもかかわらず同位性・関連性を表す意味的要素を見出すことは出来ない。また【Y・M】の子音にも意味の存在を見出すことは出来ない。これらの事実から「音韻(音素)」には意味の存在はないと言える。
 では、もう一つ上のレベルである「形態素=単語の構成要素」を考察してみよう。
 「ヤマ」の形態素は「ヤ・YA」と[マ・MA]の二つである。この二つには一体どんな意味があるのか。夫々の形態素の意味と、二つの形態素が結合しなければならない理由を明確に説明しなければ「意味論」を説き起こすことは出来ないのだ。ではどの様にしてこの難問に手をつけるのか、問題は深刻である。
 だから、我国における意味論は、次のレベルである「語=単語」の「統語論」からいきなり立ち上げて「表現形式」を主にして、「意味内容」は付随的に取り扱うのである。言語学も科学であり真理の追究が究極の目的である筈だが、それほどまでに「形態素」の世界が手におえないのであろうか。

 和語は「一音節のCV構造」という明解でシンプルな音韻構成の言語である。インドヨーロッパ語族は「音節不定形構造」の言語と言われている。
 奈良時代の音節の特徴は、子音で始まり母音で終わる「カ・ka」「キ・ki」「ク・ku」「ナ・na」「ニ・ni」「ヌ・nu」などは、CV構造の開音節語である。開音節(open syllable)とは母音で音節が終わる語でありまた、CV構造(C=子音・Consonant:V=母音・Vowel)は一つの子音にに一つの母音が続いた形の単純構造の言語である。 
 ところがヨーロッパ語族は、音節構造が一定していない「音節不定形構造の言語」で和語とは根本的に違う構造である。(和語には少数ではあるが方言や幼児語には子音で終わる語もある) 
 「CV」構造の和語とヨーロッパ語との違いは例えて言えばコンピューターの中央演算装置・CPUの使う「基本ソフトOS」の違いと同様の異相が存在していると考えられる。それはちょうどウインドウズのOSとマッキントッシュのOSの異相のようなものである。

 和語の一音節は「形態素」である。そしてその形態素の意味を解き明かす為の重要な鍵が、実は橋本進吉博士の手によって完成された、上代特殊仮名遣の『甲類・乙類』使い分けの分析結果に秘められていたのである。
 この特殊仮名遣の研究は、本居宣長・石塚竜麿らによる歴史的な一連の研究成果を経て橋本進吉博士によって集大成された。
 そしてその流れを継承した大野晋博士の手になる、甲乙二分類表記の古語辞典【古代担当(岩波)】があるが、はからずも、私はこの古語辞典から、甲乙の分類が単なる音韻の相違を表すだけのものではなく、和語の一音節毎にそれぞれ異なった「抽象概念」が明確に附与されている事実を解析の結果、突き止めることが出来たのである。
  甲類・乙類の異相の問題だけではなく全ての一音節語についても、その抽象概念がどのように体系化され位置付けなされているのかを、意味の構造面から日本語の本質を探る試みに挑戦してみようと筆をとった次第である。


第1章 和語の意味の構造

 この歌は【万葉集・1429・春の雑歌】若宮年魚麻呂の歌である。

 乙女らが かざしのために みやびをの かづらのためと しきませる 国のはたてに 咲きにける 桜の花の にほひはも あなに。【万葉集・1429】

 「をとめ」等の簪(かんざし)にと、「みやびを」(上品で優美な男)の頭に巻く縵(かづら)のためにと、帝のお治めになる、国の隅々に至るまで咲いている、桜の花の輝くばかりの美しさは、ああなんと。

 例えばこの歌の「をとめ」「桜」「咲く」の意味構造がどの様な規範に基づいて組成されているのであろうか。
 『乙女・ヲトメ』の語を手始めに考察をしてみよう。 
 語意を先に述べると、「をとめ・乙女」は「近寄る男を止めて寄せ付けない女・男性を遮断して純潔を守る女・処女であることを守らなければならない女」の意味構造を持つ言葉で「タブー」を意味する古相の言葉である。単に「婚期にある少女」では語の原義を解いてはいない事になる。
 部族社会においては、集団の定める秩序や掟などの約束事は必ず守らなければならない、社会的な必要条件であった。早婚の禁止は優生学的にも生命体の劣性化を防止する必要手段である。「サヲトメ・ヲトメ」はまさに社会集団の力で守らなければならない掟を言葉にしたものであり、男たちに課せられたタブーなのである。
 「乙女」の語構成は「ヲ・男・雄・牡」+「ト・止・留・の語幹・動きをそのまま留める(乙類)」+「メ・牝・雌・女(甲類)」で「男・止・女=男を寄せ付けない+女」の意味構造であることが理解される。「を」は「ヲス・牡・雄」の意で「雄の生殖器」を表す語である。したがって「小さい・ちょっとした」などの意にも用いられる。
 「ヲカス・犯す・侵す・冒す」=「ヲ・雄・男・男根」+「カ・堅固・強固」+「ス・四段」の構成で、タブーや掟を破る男性の犯罪に特定された語意構成になっている。女性は古来、受身で被害者の立場にあり、今日においては女性保護の法整備も行き届き、男たちの淫らな行為を許さない社会になっている。

 「ヲ」は「雄・男の性」の概念を表すが、もう一方の「オ」は「大きい・押す・圧迫・重も・多い」などの語幹の「オ」で「圧迫」を原義とする抽象概念を表す素語である。

 ここに「さをとめ・早乙女」を揶揄した面白い俳句がある。

 【五子稿・来山】 さをとめや 汚れぬものは 歌ばかり
 
 解釈は、純潔の少女の名前で呼ばれているところの「さをとめや」と、矛先に玉(詞の頭・タマ)を突き刺して高々と掲げておいて、「汚れていないものは、サヲトメと言う言葉だけだ」とこき下ろす川柳である。この時代においても、はっきりと「さをとめ」の正確な語意が認識されていたことがこの歌から判る。
 では「さをとめ・早乙女」を解いてみよう。
 「サ」は接頭語では解けないし「神稲」「五月」などの意味はさらにない。何故ならば次の歌があるからだ。
山家集】 いそ菜摘む 海女のさをとめ こころせよ 沖ふく国に 波高くなる。
 田植えをする乙女ばかりが「さをとめ」ではないのである。ここで「沖ふく国」は海神の住む国(わたつみ・海神)の意味で、「沖風が吹いてきて波立ってきた」と海の荒神の動きがただならぬと言っている。純潔の乙女の周辺にいる男たちの不穏な動きを、波に例えて気を揉んでいる歌である。
 本書では一切「接頭語」なるボカシ用語は使用しない。「早乙女」は「サヲ=男性の象徴・男根」+「ト・止・遮断」+「メ・女」と「乙女」よりもさらに即物的な人体語を使った、二音節語を合体させて四音節で一つの意味を作り出した造語なのである。
「サヲ」=「サ・前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」+「ヲ・雄・牡・男」=「サヲ=男根・棹・竿」の構成である。この事実から「さを・男根」が隠語ではないことを和語の意味構造が明解に証明しているのである。
 では何故「サ」が「前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」の抽象概念を持っているのか、それは次の「桜」の「サ」の意味に注目していただきたい。

「桜・サクラ」=「サ・前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」+「ク・動きを表す辞・四段・終止形」=「サク・裂く=咲く」+「ラ・同じものの集合体でまとまりのある形状を表す」の構成である。つまりつぼみの状態で繋がっていた花びらを「裂き」=「咲き」となるのである。
 薄い紙・布・樹皮・革・葉などを「引き裂く」とどんな形状になるか。
 「サキ(連用形・名詞化語)」の類語で検証してみよう。
 「サキ=裂き・咲き・割き・先・埼・崎・岬」これらの語で共通する意味は何か。それは「形状」において全ての語が「先端が突き出た尖りを持った形」とその形状を生み出す基本の所作を表している。そして、その尖り方は「前方斜め下方向にやや下がった姿の、笹の葉とかヤジリ(鏃)・ナイフ・刀などの形状」で「男根」もまさに先端部分が同形の「サ・前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」+「ヲ・牡・男」であることがわかる。
 「サ」のつく語をもっと広く見てみよう。
 「サ・矢の古語」「サカ・坂・境・界」=「サ・前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」+「カ・堅固・強固」の構成で「逆らふ」の「サカ」は境界線で敵と対峙する対決の刃物の先端の形状を表す語である。昔から境界線は「サカモギ・逆茂木=敵の侵入に備えてトゲのある木の枝を立て並べ結び合わせて作った柵(サク・逆く)」などで外からの侵略に対してこの「境=サ+カヒ(防御)」を死守したのである。
 地名で「サカ」のつく土地は地形が「サ・前方斜め下方向へ進む意」であるばかりではなく、部族間の境界線のホットラインで火花を散らした歴史を物語る場所であって、地形が平地であっても「サカ」なのである。
「サカ」の類語現象に対し、これを私は「カル現象(後述)」と呼んでいる。私がこれを発見する遥か以前に、折口学(折口信夫)を継承した高崎正秀博士はすでに【八心式・ヤゴコロシキ】(一語で幾通りもの意義を発する、和語の特徴を捉えた“底語”の存在とその働きを説いた理論[著書・文学以前・桜楓社])の学説をうち立ておられたのである。(詳細は後述)
 
「サクラ」は「裂く=咲く」+「ラ」=「咲きたるモノが寄り集まりて一つのまとまりのある形状を構成したるもの」の意であるから、桜は菊や薔薇のように唯、一輪の花を一つ一つ鑑賞するのではなく、一斉に咲き誇る花の巨大な団塊の連なりを「咲きまくりたるものの群がり」=「咲く・等(ラ)=桜」として捉え、「連体形」+「ラ・群がり」で名詞化されたところに、命名をした先祖の感動の大きさが表れており、その心が伝わってくるのである。
 漢字は単に中国からの借り物に過ぎない。語意の解釈をする際に大切なことは、外来輸入した漢字という中国人の抽象概念でもって、最初から日本古来の言葉の意味を考えてはならないことである。
 「桜」の字を見て意味を考えると、和語の「サクラ」が単なる固有名詞で、特定の樹木を表す単なる「恣意的な音声記号」であると錯覚し、和語の意味構造を理解することすら出来なくなってしまうのである。
 言語学の一番危険な落とし穴は実はこれなのである。日本語のルーツを模索する試みが学界で様々にあるが、何れも再考さるべき問題点を背負っているように思われてならない。

 一口に「日本語」と言っても外来の言葉が満ち溢れていて、どこまでが本源的な日本民族の言葉であるのか、きちんとふるいをかけないとこれまた判断を過つこととなる。
 本書においては日本民族固有の言語を「和語」と表現する。勿論日本民族の原初語が何時頃どのような経緯で成し遂げられたか、その実態なぞ誰にもわかる事柄ではないのだが、仮に「原日本語」と呼べるようなこの日本列島に定住していた人々が共通的にその言葉を理解し、自ら自在に駆使し得たところの言語を「和語」と呼ぶだけのことなのである。

 万葉集の歌言葉の中にもそんなに多くはないが、外来語が混じっている。
 例えば【万葉集・3327】 衣手(ころもで)を あしげの馬の いなき声 心あれかも 常ゆ異(け)に鳴く。 

 この歌で「馬・うま(むま)」は外来語である。また「駒・こま」も和語ではない。一体どの様にしてそれを判断するのか。その謎解きの鍵を握る「和語の素語」の実態に迫って見よう。

 『言葉の中の遺伝子情報』

 DNAとは、デオキシリボ核酸の頭文字である。細胞の中には核があり、この中には遺伝子DNAが染色体という形で存在している。
 一つの細胞の中に閉じ込められた遺伝子の完全なセットを「ゲノム」と呼んでいる。
 人間のゲノムは三十億からの塩基対(エンキツイ)から成り立っていて、この中に三万種類(国際ヒトゲノム配列決定コンソーシアム二千年発表)の遺伝子がランダムに点在している。
 この遺伝子の本体がDNAであることがわかるまでに長い歴史があった。核酸性物質ということから「核酸」と名付けられたのは十九世紀のことであった。そして、それからなんと五十年も経てからやっと、この「核酸」が遺伝の基本物質であるDNAであることが判ったのである。
 現在ではヒトゲノムの解読に世界規模での激しい競争が展開されている。
 この開発競争の理由は、人間のDNAの構造がわかれば、人体の異常のメカニズムや、脳内の構造・「思考法」など全てが解読でき、病気の早期治療や難病の事前の対策がたてられ、人類に福音がもたらされると考えられているからである。
 そして今述べた人間の「脳内構造・思考法」について、ここにこそ「ロゴス・理性」の存在が秘められているのではなかろうかと私は考えているのである。

 『言語とは』
 
少しだけ難しくなるが、「言語」とは何かを考える最初の段階で二つの異なる意見が存在する。
 その一つは、言語の実態は人間の脳内に存在し、それをロゴス(理性)と呼び、この理性の働きで実存する世界の森羅万象を秩序立てたり体系化したりする。
 そしてこの体系化されたものをやがて「分別」と言う仕分整理が徐々に進められ、本来的にはこの世の実世界は混沌とした連続の「カオス」であるのだが、これらを人間は、恣意的(勝手気ままに)に切断し分節して「非連続の形式」を形成する、これを「コスモス」と呼ぶ。勿論この恣意的にコスモスを成立せしめたのは遥か太古のもはや誰も知り得る術のない遥かな昔の我々の先祖である。
 このコスモスが言語の成立基盤であり、脳内にあるロゴスの顕在化即ち、脳内の遺伝子情報に秘められた思考・類推のメカニズムと一体化して「ラング・言語」を形成するのである。
 この「言葉」と「思考」は本来別々の物である、と考えるこの意見は、言葉がなくても知覚・直感・とっさの判断・推測などが可能であるから、との考え方によるものである。
 そしてもう一つの意見は「思考」は「言葉」によってのみ組み立てられ論理化される、と言う意見である。どちらが正しいのか現段階では答えを出すことは困難である、ヒトゲノムの解読を待ちたい。
 科学の分野においては、この生命科学とコンピューターサイエンスが新時代の牽引役を担って目覚ましい進化を遂げつつある
 一方大きく目を転じて、言語学の一分野である日本語学、これを「国語学」と呼んでいるのだが、当然のことながらこの分野も言語のメカニズムや意味的世界の真理を追究する科学分野であり、目覚ましい研究の進展・成果が求められてきた。
 だが、残念ながら意味分野の研究においては「形態素」レベルでの研究が未だに手付かずの状態にある。
 この原因は、ソシュール言語学理論の「恣意性」の解釈にある。
 即ち、ソシュールの記号理論における最も重要なテーゼである「言語記号の持つ恣意性」という特性をめぐる解釈について「事物と言葉との間には何ら必然的な結びつきは無い」と言う意味に曲解し『言語は恣意的なものだ』と考えてしまったことによる。(本書巻末の〈参考〉丸山圭三博士著を参照)
 この事によって「形態素=単語を構成する要素」の研究を、なんということであろう、積極的に放棄したまま今日に至っているのである。 
 「意味論」には三つのレベルがあるのだが、その中核的な「形態論」を議論しないまま、いきなり「統語論」の「語」から「意味論」を出発させてしまったのである。

ソシュールシーニュ理論」(巻末に学術用語解説参照)
 この理論は難解であるが、しかしこれを避けては通れない。
 【ソシュールの第一原理――記号の恣意性】
 ①『言語記号=シニフィアン』は「モノと名前」の関係ではなく、「概念と音響イメージの結びついたもの」で、この「音響」は単なる物理的な振動ではない。
 ②『概念=シニフィエ
 ソシュールは①言語記号と②概念との関係は「恣意的である」と言う。
 ソシュールは「言語」は「記号・シーニュ」の体系であると説く。記号はシニフィアンシニフィエから成り立っておりこの二つは一枚の紙の様に表裏一体となっていて分離することは出来ない、と考える。
 これを短略的に受け取ってはならないのである。
 この「恣意的に」音声と意味とを一体化せしめたのは我々の感知し得ない太古のご先祖が恣意的に言語としての「記号」を作り上げたのであるが、一旦決定されてしまったこの記号はもはや個人が恣意的に変更したり決定したりすることの出来ない、社会的な規約の中に組み込まれたもので、我々の生活はその枠組みのなかに束縛されているのである。
 だから音声と意味との関係は社会的な規約の中で「附与」されたもので、もはや此れを引き放つことは出来ないし、音声と意味との関係は、成立の当初は恣意的であったのだが、特定の言語集団の中での現実は、『必然』ということになる。
 この事実を取り違えて思い込みをすると「意味論」が前進しないのである。

 『意味論を構築するレベル』

  ①「音韻論:音素(意味を持たない)」
  ②「形態論:形態素(最小の意味を持つ単位)」
  ③「統語論:語(最小の自由形式)」
 このようにそれぞれのレベルで論理を構築し展開させていく

 「音素」は意味を持たないから音韻論では対象外である。だから、最小の単位で意味を持つ「形態素」が意味を構成する基本単位とならなければならない。
 ところがである、驚くべきことに【統語論】の最小の自由形式である『語=それ自体で自立して意味を構成しているもの』のレベルの『語』をもって「意味論の最小単位」と見なして意味論の展開を始めるのである。
 例えば、「文」の構成を考えるとき、まず最初に「形態素」があり形態素同志の組み合せによって「語」の意味を確定しさらにその「語」の意味を積み上げて「句」の意味を得て、さらに「句」の意味を積み上げて「節」をさらに「節」を積み上げて「文」の意味を得る。これが正しい「構成性原理」であるはずだ。
 しかしながら我国における論理展開は最初に検討さるべき「形態素」を無視して「語」から始めるのである。
 この作為的な欠落は一体何を物語っているのであろうか。ここにこそ我国における「意味論」の不毛が隠されているのだ。
 ソシュールの、言語は、記号の体系で、音声と意味との関係には「必然的な結びつきは何もない」このことが恣意的であると言っている。そしてこの「必然性」の意味は『自然法則』に支配されているかどうかということであるから、音声と意味との関係は自然法則には縛られずに全く恣意的にこの世の実態である具体的・物理的連続体の世界に「恣意的に」切り目を入れ「非連続単位」に切り取ったものが「形相」であり「シーニュ・記号」もこの形相に属しているのである。
 従ってこのシーニュ理論は、具体的な言語素材を外界の現実との相関において捉えるのである。
 『言理学』
 しかしこのソシュール理論を引き継ぐプラーグ派と論理を異にするコペンハーゲン学派のルイ・イェルムスレウとウルダルが提唱した『言理学(グロセマティクス・glossematique)』の理論は、純粋に言語実態の内的秩序を整理して、自律体系の樹立を目的としているもので、言葉を厳密な論理体系下において分析記述するというものである。これは極端に抽象的な定義の集積であるが、この論理の結論は端的に言えば「言語は記号ではなく、それを構成する記号素(figura)ないし言語素(glosseme)から成立している」と言う学説なのである。
 言理学の基本的な視点はソシュールの「実質」ではなく「形式」の記述に徹すべしと言うことで、それは言語の奥に内在されている「機能的秩序の解明」でなければならないという、これこそが言葉の普遍性の本質を把握できる唯一の方法であると説いているのである。【言語学の潮流・林栄一・小泉保】より。
 はからずも本書もまさにこの『言理学・グロセマティクス』の「機能的秩序の解明」に近い考え方の「最小単位の一音節の機能」を解析して和語全体の「秩序」を解明しようとするものである。


 第二章 音声と意味との関係

 一 『日本語のDNA』

 人体語の「頭」を「カシラ・カウベ・アタマ・カミ・カウブリ・オツム」などと言う。
 これらの言葉は勝っ手気まま(恣意的)に名付けられた結果に依るもので、互いに連脈の無い単なる「音声」の羅列に過ぎないものなのだろうか。
 それとも、例えば「カ・シ・ラ」の各一音節毎に意味が存在していて、その意味と意味との結合の結果、夫々の語意を温存し活かしたまま「頭」の意味を構築しているのか。
 つまり「カ」の意味と「シ」の意味と「ラ」の意味が「文の組み合わせ方の法則」に従うならば、必然的に「人体の頭部」を表現する言葉になってしまうという、語構成(造語のメカニズム)の因果律が存在しているのかどうかと言うことである。
 当然のことながら、言葉は抽象概念の「意味」を「音声」に貼り付けて表した人間の文化的な意思表示の信号である。
 人間は他人や家族と意思をやりとりする道具として、その民族が独自に定めた様々な音声の形態や区切り(音韻)にそれぞれに特定された「意味と役割」を附与して言語機能を発揮させ社会を動かして来た。
 もちろん「音声」に意味を「附与」したのはその言葉を使用する民族集団の祖先であることは疑う余地はない。重要なことは、民族が違えば『附与』の実態や方式が基本的に異なることは当然のことである。
 インド・ヨーロッパ語族の言語と和語を比較して単語の類似性を吟味する、などと言った愚挙は避けなければならないのである。

 『附与』を考察する

 言語の意味を解析する方法は「形態素(素語と呼ぶ)」のレベルから出発する必要があることをこれまでに述べてきた。最小単位のラングでこれ以上意味的に分解できない究極の所まで分解して取り出す方法である。
 例えば「鏡」は「カ+ガ+ミ」であり、「屈み」も「カ+ガ+ミ」である。
 英語では、鏡は【mirror】であり「屈み」は【bend down】である。これを見れば両者の意味構成のシステムに大きな相違があることが理解される。日本語は「kagami」と言うラングのレベルにおいて「同一」のもが、パロールという具体的レベルにおいてバリエーションを持つ。これを私は「カル現象」と呼んでいる。
 鏡を「キョウ」と漢音読みをして「望遠鏡」の語がある。しかしこれは本来の日本語(和語)ではない。ボ・ウ・エ・ン・キ・ョ・ウ、にばらばらに分解してみても、これらの「ボ」にも「ウ」にも「エ」や「ン・キ・ヨ・ウ」などのどの音節にも、意味的に「遠くをのぞき見る道具」を表さなければならないという音声と意味との制約関係は見当たらない。


 『和語』の本質

 さてここから、和語の核心部分に入る。
 『和語』の意味の最小単位(日本語における形態素)は「一音節の音韻」=「形態素=素語」であり、そこに言葉の遺伝子情報が書き込まれている、などと言ったら人々はきっと驚くに違いない。
 それはちょうどデオキシボ核酸に遺伝子の情報が書き込まれていると言う言葉を最初に耳にした時と同じように。
 しかしこの思い込みを解きほぐし疑心を取り除くには時間がかかる。しばらく辛抱願ってこの論理展開に偽りがあるかどうか凝視して頂きたい。

 それでは「カ・ガ・ミ」の音韻が「鏡」の「意味」を表さなければならない「一音節の音声と意味」との間に制約関係が存在するのかどうか「和語の本質」に迫ってみよう。

二 日本語の『本質』

 『鏡・かがみ』の音声と意味との関係を考察してみよう。
 「鏡・カガミ」と「屈み・カガミ」は全く同じ音節構造である。しかし文法上では鏡は名詞であり品物の名前を表す語で活用しない。
 一方「屈み」は「カガ」の語幹に連用形「ミ」がついた「動詞」で、背中を丸めて前に屈曲する人の姿とその行動の状態を表す語で、この二つの語は全く異なった使われ方をする別語である。
 ところが実は「鏡」は「屈み」の語から派生して「名詞化」した語なのである。この理由を証明する為には、一音節のそれぞれの語をまず解析する必要がある。

 和語の「カ」にはどんな意味があるのであろうか。「カ」の意味は辞書を引くと ①接頭語で多くは形容詞の上に添えて。語調を強め、又は整えるもの。
  「――(香)青なる」「――(迦)ぐろき髪」 ②接尾語「すみ―」「あり―」 ③係助詞 ④代名詞「彼」 などと記載されている。しかしいくらこれらを眺めて考えぬいても「カ」の意味を割り出すことは困難である。 
 
 『隠された意味を取り出す』

 一音節語(素語=形態素)を解き明かすには、ツール(道具)が必要になる。道具がなければ何も見えてこないのである。デオキシリボ核酸の構造を見るには顕微鏡が必要な様に。
 小道具として【キ・サ・シ・ス・ツ・ヒ・ミ・ム・ラ・リ・ル・レ・ロ】を検証する語の下につけてみて、類似の意味形態がどのように構成されているのかを対比分析すればおのずから「隠された意味」が浮かび上がってくる。(後述[ル]の項をご参照)

 『カ』の意味を小道具で検証してみよう。
 あらかじめ、「堅し」と言う言葉から「カ」=「堅固・強固」の概念を持った語と想定して「カ」を用いた語を対比分析してこの解釈が妥当かどうかを調べてみよう。
「カキ・蛎・垣」=「カ・堅固・強固」+「キ・取りつき食い込む(乙類・キの意味は既に検証済み)」の構成である。蛎は岩などに強固に取りついて手で取ろうとしても簡単には剥がせない。垣は垣根とも言うように土の中に強固に食い込ませてあるから防護の役割を果たすことが出来る。蛎も垣も同じ意味の「強固+取りつき食い込む」を表す語である。
 「カサ・笠」=「カ・堅固・強固」+「サ・前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」の構成である。こうもり傘でも菅笠でも一定の強度を持ち、前方斜め下方向へ進む傾斜があり、笹の葉形の様に先が尖った形に出来あがっている。
 「カシ・樫」=「カ・堅固・強固」+「シ・下・棒状」の構成である。
 「カシ・牁(船を繋ぎとめる杭・もやい杭)」=「カ・堅固・強固」+「シ・下・棒状」の構成である。
 「カス・粕」=「カ・堅固・強固」+「ス・抵抗なく通過」の構成である。抵抗なく通過したものは「液体の酒」である。つまり、もろみを麻袋に入れて強力に圧をかけて酒が「ス・通過」したものが「カス」で水分のないカスカスの値打ちのない物である。
 「カツ・勝つ」=「カ・堅固・強固」+「ツ・四段」の構成である。崩れは無く堅固・強固な状態を保つ意。
 「カヒ・貝・卵・飼ひ・買ひ・蚕」=「カ・堅固・強固」+「ヒ・四段」の構成である。堅固・強固にする。廻りを固く閉じて防御する意。(詳細は後述)
 「カミ・神」=「カ・堅固・強固」+「ミ・身(乙類)」の構成である。堅固にして強固なるものの意。(詳細後述)
 「カム・噛む」=「カ・堅固・強固」+「ム・四段(甲類)」の構成である。上下の歯で強固に挟み砕く意。
 「カラ・殻」=「カ・堅固・強固」+「ラ・同一物が寄り集まって出来た集合体」の構成である。

 
『カル』現象

 「カル=刈る・枯る・固る・軽る」=「カ・堅固・強固」+「ル・四段」の構成である。
 例えば、草を固い刃物の「カマ・鎌」で「刈る」とやがて草は水分が蒸発し、「枯れる=枯る」状態になる。そして時間が経過すると、乾燥して「固くなる=堅る」そして持ち上げてみると「軽る・カル」になっている。これを私は「カル現象」と命名する。「カル」というラングが様々なバリエーションを広げていることが理解される。この現象を見て「音声と意味との関係は恣意的である」などと言うのは妥当ではない。
 この様に日本語はかなり理屈ぽい言葉で、基本の「カ=堅固・強固」+「ル」の意味構造を安定的に保持した状態で、意味を連鎖的に拡張して展開させている事が判る。
 日本語の発生の草創期に思いを馳せる時、この思慮的に意味を多義に派生せしめて八方に広げていく「カル現象」は我国特有の言語形態で他にも同様に連鎖展開する「サ」「ホ」「マ」など幾つもあり、日本語の本質を示唆する言葉の「遺伝子情報」の一つとも言えよう。
 日本語の「源流」を考察する時にはこの特質を考慮に入れて正確な言語対比をすべきものと考える。
 「カル」はさらにもう一つの様相を連鎖展開させている。
「カル=駈る・狩る・借る」の語を考察してみよう
 「駈る(追い立てる意)」=「カ・堅固・強固」+「ル」の構成で、「カ」の状況にあるのは獲物を追う人間で、「チカラ=力」を出しっぱなしにしている状態を示す語である。筋肉に力を入れると身体が「固=カ」になる。「アカ・赤」は「ア・吾」+「カ・堅固・強固」の構成語で力むと顔が赤らむ。だから活用語の「あかり・あかる」が派生して存在するのである。「赤ん坊・赤ちゃん」は力いっぱい泣いて自分の身体を赤信号にして母親の注意を引き付けているのである。
 「チカラ」は何故か漢字で「力」の文字を使う。擬音語で「カチカチ・カンカン・カラカラ・カタカタ・カリカリ」など石や金属などが触れ合った時に発する音の印象が「カ・kwa」「カ・ka」であったと考えられる。
 石器時代は人類の歴史の中においては殆どであると言っても過言ではない。鉄を手に入れてからの年数はたかだか三千年である。永い永い石の時代に言葉が作られたことを忘れてはならないのである。
 話がそれたが、獲物を「石持て追う」姿が原始の「駈り・狩り」であった。
 稲を刈るは「米という獲物・収穫物」を石の手鎌で「カル」のであり「狩り・駈り・刈り」は意味的に連鎖した語で同じ範疇の語彙であることが理解できよう。
 また「借り」は、これも「カ・堅固・強固」+「リ」の構成である。人の所有権に対して「力」を出して強固に一時的に自分の自由にさせてもらうことで、「借り」の基本概念は自分が強固であることを誇示しなければ、他人や銀行は、簡単に物や金を貸してはくれないと言う相互の力関係を示す言葉である。
 社会哲学的とも言える「信用創造」の初発の原理原則を示す言葉なのである。
「カ」が堅固・強固を表す意味を持つことはまだいくらでもその証拠を山のよに積み上げることが出来る。     (「カ」に付いての詳細説明は後述を参照)
 
 さて話を『鏡』に戻すと、「カガミ=屈み・鏡」は「カ・堅固・強固」+「ガ=堅固・強固な状態には至らない、中途半端なガサガサ・ガラガラなどの様に少し障りのある不完全な堅さや、力が少し足りない状態を表す濁音語」+「ミ・四段」の構成である。 
  「カミ=力を入れて身体を硬直する・上顎と下顎に力を入れて噛み」ではなく「ガミ」であるから「少しだけ身体に力が入った状態」を表す語である。だから「前かがみ」になるのは、人は後へ「かがむ」ことなど出来ないから「かがむ・かがみ」で「身体が少しだけ固くした状態で前方へ屈曲した姿勢」を表わした語である。

『ガ+ミ・ム(甲類)』の用例は「あがむ・崇む」「いがむ・怒む」「おがむ・拝む」「しがむ」「せがむ」「とがむ・咎む」「ながむ・眺む」「ひがむ・僻む」などは全て「濁音」で人体の動きや体形に、力の入り具合がやや抑え気味にした感じの表現となっていることが判る。これらの語は何れも「前方へ身体が屈曲した状態」の意を含む言葉であることが理解できよう。
 「鏡」が「屈み」から派生した理由は「水鏡」に対して身体を「カガメテ・屈めて」覗き込んでいる姿なのである。
 大陸から錫と銅を溶かして     「で」削除              で          作られた鏡が渡来する前は勿論のこと手鏡の無い場合は、器(ウツワ)にいれた水に顔を映して「水鏡」として利用していた。何故そんなことが判るのかと言えば「ウツハ・器」「ウツル・映る」の言葉があるからである。
 「ウツハ」の語を検証してみよう。
 「ウツハ・器」=「ウ・∩形・屈曲した形状」+「ツ・水」+「ハ・張(張リの語幹)・端」の構成である。「ウ・∩形」は湾曲した器の形状を表す語である。
 「ウ」の用例・「浮く=湾曲した形状の物(お椀・丼・舟)などは水に浮く」「畝・ウネ=土を湾曲に盛り上げたもの」「浦・ウラ=浜が湾曲している」「瓜=湾曲して盛り上がっている物」「潤む・ウル・ムの語幹=湾曲した物体の表面を覆う」「うれ・末(植物の成長する先端・梢)=柔かな若い枝葉であるから湾曲している」「うろ・洞=内部が湾曲していてぐるりが岩や土で取り囲まれた空間」「頷く・ウナヅク=ウナジ(首筋の後)を湾曲する動作」「鰻・ウナギ=体を湾曲させてなぐ動きをするもの」「うたた寝=身体を盾(タタ=盾)とみなして、体が前方に湾曲する姿で寝る=防護の盾が湾曲した=自失の状態を表現する語。だから「うたた」の語意は「湾曲した盾・防御が崩れた形・自失の状態」であるから、うたた寝をすると寝首を取られてしまったり、風邪を引いたりするから注意が必要である。

 こんどは「ツ」を検証する。「ツ」は液体の総称「水・体液・水域・潮水」のことである。「体液が基本で液体を表す=ツ・唾・血・乳(古くはツ音)」詳細は「ツ」の項を参照。
 「うつる・映る」=「ウ・∩形・屈曲した形状」+「ツ・水」+「ル・四段」の構成である。つまり身体を「屈み・カガミ」+「ウツハ・器(水を張るもの=うつはもの)」+「ウツル・水の張ってある方向に身体を湾曲すると自分の顔が映る」。この様に「カガミ」「ウツル」の意味は明解に解読できる。
 「うつそみ」「空蝉・ウツセミ」の新解釈については後編「ウ」をご参照。

  『音声と音韻の違い』

 「音韻・オンイン」の語についてその意味をはっきりさせておかねばならない。
 人が声帯を振動させることにより空気を媒体として音波が空中を伝わり耳で感知できる、その波動を「音韻」と言うが、狭義の意味解釈においては「音韻」に対する概念として、「心理的・観念的要素」の存在を無視した、一回毎に発音される物理的な音そのものであると考える。
 一方、広義の「音韻」は人が発音できる音の中から、有限の数の音を選んで、言葉として相互の意思疎通の用具として使っているその「音の夫々の違いを系統的に調べて物理的な音の単位を規定したもの」これがつまり広義の「音韻・音素」と言うのである。
 つまりこのことは、狭義の「音韻」は単に音の単位を規定しただけの物理的な音声であり「意味」の介在はないと言っているのだ。


 和語の広義の音韻について見てみよう。一音節【サ・SA】について言えば、【S】の子音(音韻)にも【A】の母音にも何らの「心理的・観念的要素」は附与されていない。しかし母音の【A】だけを切り離すことがもし可能であるとしたならば【A】は「ア」の独立した一音節に変貌し「吾・自分・自我」の意味を附与された「素語」となる。しかし「サ・SA」は和語においては既に遥かな古代において我々の先祖と言える人々の社会集団の中で「サ」の音声に対して「前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」の心理的・観念的要素を附与しており、それはちょうど一枚の紙のように表裏一体になってしまっているので、片一方を取外そうとしても全く不可能である。
 だから今日「サ」を個人的にそして恣意的に「円形」の意味に転換させようと試みてもそれは社会が受け入れない限り無駄なことであるし、その望みは馬鹿げた望みと言うことで社会的に容認される事柄ではない。
  音韻と意味との関係が言葉の最小単位である一音節の音韻である「アイウエオ……」四十七音と古語十三音、及び濁音全てに夫々異なる概念が特定されているのである。しかし例外があり、「辞=助詞・助動詞」には「働き」と「働きの概念」があるが意味(シニフィエ)はない。この「辞」の働きの研究は充実されているが【辞】の本源的な観念は脳内にある「ロゴス」によるものかもしれない。この意味からもヒトゲノムの解読が待たれるのである。
 和語では音節が異なれば「語意」も異なるのはごく当たり前である。しかしながらこの事実を、音韻と意味との関係は「恣意的」であるから「一音節」の意味の領域に入ることは「意味がない」と唱える一部の国語学者にとっては、日本語の本質が全く理解し得ないこととなる。

 『言葉の深層真理』

 ロゴスという高次元の能力は「グレートサムシィング」の存在を信じたくなる程のレベルの高い脳内に存在する天与の理性である。前に述べたがこれをコンピューターに例えるなら「CPU・セントラル・プロセッシング・ユニット・中央演算処理装置」と呼ばれている計算機に組み込まれた基本ソフト・OSと同じ意味合いを持ち「脳内にあるロゴス」が言語と一体になって音声を操って仕事をするように、このCPUも様々なソフトを操って仕事を処理するのとよく似ている。
 人間はこのロゴスの働きによってカオスであるこの世の現実世界の事象を、整理され秩序立てられた思推(理性)に基づいて言語化されるのだが、言語を構成する単位的要素として「語彙」が絶対的に必要となる。そしてこの初発の語彙を産み出す為の要因は脳内に蓄積された体験や遺伝情報の中に存在する理性のメカニカルな動機によって、個別的に語彙の選択が成し遂げられていくものと考えられる。しかし、その選択は無制限に自由(恣意的)ではなく一定の枠組みの中で無機的ではなく有機的に進行するものと思われる。この、一定の枠組みの違いが民族毎に異なり、多様な言語地図を地球上に描いているのである。
 日本語の「枠組み」は「CV」構造と言う一音節の枠の中に意味(抽象概念)を附与しその「CV形態素=素語」の様々な組み合わせによって語彙群を構築したのである。
 和語と近隣諸国との言語比較は「形態素」と「形態素」からの出発でなければ意味をなさないことは明らかである。

野村玄良・ささ玄・第3回 ブログ版『日本語の意味の解』”狩人が創った日本語”

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◆狩人が作ったロジカルな日本語

日本語は神様が造ったのではなく、一人の超越的な能力を持つ狩人が創ったのである。
「何・なに」とは「ナ・柔らかな」+「ニ・土」で、土に付けられた獣の足跡を観察する「好奇・疑問」のコトバであり、「知る・しる」は、「シ・下」に刻まれた「ル・存在する事象の形式的概念」で、土の足跡の多様な痕跡は情報であり、その意味するものを「悟・さとる=サ・斜め下+取る」でその情報を探って取り込むことが「知る・下の痕跡を探求」することである。
現代においても、言葉の意味するものを、その根源的な側面で、反省的に理解することが強く求められて居る。
石器時代の日本語の本質とは何か。日本語が歩み続けてきた長い道程に古い文献が累々と積み置かれ、道々に、様々な歴史の轍(わだち)や人々の日常の足跡が刻みつけられている。
幾度となく災害に打ちのめされる我々は、今それらを振り返って「それはナニカ」と新たな観点から読み解くことによって、言葉の中に潜む先祖からの伝承や警告や生きる知恵を、謙虚に学び取るべきではなかろうか。
言語創生の過程は人間が火を扱い、石や木を加工して狩猟の道具を手にし、野獣から人へ踏み出した過程と歩を同じくして、言語を発明し人間性自体が形成されていったものと考える。
言語の起源の問題は昔から難問とされてきた。人間特有の能力として言語と並び注目されるのは、道具の使用とその製作である。通常の道具が自然環境に働きかける手段であるのに対し、言語は社会的相互作用、あるいは共同化の手段である。道具が孤立して存在するということはなく、常に弓は矢を射るためにあり、矢は獲物を射殺すためにあり、矢で射止めた獲物は生きる糧とするために「いる・要る」⇒「射る」のである。
つまり生命維持のために食べ物が「イル・要る」という前提において矢を「イル・射る」。射られた矢が獲物に命中すると、矢先が獣の体の中に「イル・入る」のである。 「はいる」は矢の端が「はいる・端入る」と言う構造になっている。
「イル・炒る・煎る」は食べ物を加工するために火で攻めることを意味する。「鋳る」は、火で溶かした金属を鋳型の中へ「イル・鋳る」のである。
イル」を素語分析すると、「イル」=「イ・尖りの形態・矢を射る形態」+「ル・現在進行中の状態・存在する事象の形式的概念(活用語尾)」=「射る」という人間の道具を用いる行為が「……のために」で行なわれ、その行為は流れる時間の中で現象を引き起こし派生的に事象を「モノゴト」というものの引き起こす事柄を因果律という法則性の観点からの変動の局面を切り取って同一の音節構造の中で「イベントスキーマ=概念の束化」という派生現象を構造化して「同音異義語」として封じ込める。その変容局面を切り取って言語記号で構造化して対象の形態を構造説明する、その説明が「素語」という単体の「原記号」でそれを「単体スキーマ」と呼称する。だから「単体スキーマ」は「実質」であり「実体」であり「誰もが認識できる実態」を認識の「核」として意味の構造を構築する「原材」としての言葉の「原記号」となしたのである。

筈(はず)
矢の末端の弦に番がえる凹みの部分を言う。古くは箆に切込みを入れるだけだったが、現在では角やプラスチックでできた部品をつける。筈は、挿し込んだ後に筈巻(はずまき)という糸を巻きつけて抜けるのを防ぐ。筈が弦から矢を発射する特は必ず「外れ」て矢が飛び出す。弦が外れるのも、はまるのも当然のことで、それができない様なそんな「筈」は無いという言葉である。当然のことを「筈」というようになったからこの言葉は石器時代のものだ。これは今でも否定形で「そんな筈はない」といった言い回しに残っているから、現代でも1万2千年も前の狩人が創った単語を使っているということになる。
「ハズ」の定義をすると「ハ・端」+「ス・通過する形態」⇒「ズ・簡単に通過しない」。濁音は清音の意義に「触り・雑な形態を付加」であるから「ズレ=はずれ」。筈が弦(ゆづる・ゆみのつる)から外れないと矢が飛び出せない。
ちなみに、同じ「はず」でも「弭」と書いた場合、弓の上下の弦を掛ける部分を指す。この混同を避けるため、筈を矢筈、弭を弓弭(ゆはず)ということもある。

◆「ヰノシシ・猪」は「ヰ・ゐ」で、猪はその家族が移動するときは必ず一列に連なって移動する。母猪が先頭に立ち、子供たちをはさんで、しんがりを雄親が守る時もある。「ヰすわる」は「連続して」その場所に存在することである。

「ヰ・wi」
「ヰ=ウ+イ=う/u/+い/i/=/wi/(母音結合による母音調和)・猪の形態・連続する形態」。猪の家族が移動するときの連なる形態。母親が子供の猪をを率いる形態。
奈良時代の発音では、かすかに/u/音が残存していた。
万葉仮名 音読 【位・委・威・萎・偉・為・韋・謂】。
訓読 〔井・猪・藺・藍〕。

『ヰ:wi』
【意味概念】 同類の物事が続く形態:連続・継続・引率。
イノシシを「猪・ヰ」と言う。「シシ」は獣の肉を意味し。鹿の肉を「カノシシ」と言う。
「ヰ・猪」は「率る」と同じ「引率・連続」の意。ではなぜ猪が引率なのか。古代人は猪の習性をよく観察していた。先頭に立った母親が沢山の子供(瓜坊・ウリボウ・ウリンボ)を引きつれて必ず一列に行儀よく移動する。たまに父親猪がしんがりを勤める時もある。これを「ゐども・猪伴」あるいは「ともじ」「うなとも」などと呼ぶ。
「ヰド・井戸」は「ヰ・連続」+「ト・ド(乙類)・線引して囲んだ内側=所」だから、「連続するものが、線引きして囲んだ内側にある」これは、連続して涌き出てくる水が取り囲まれた所の意である。「ド」は周りが立体的に取り囲まれた形状である。清音の「ト」(甲類)は、「線引きして平面的に取り囲む意」となるから濁音でなければならない。
「ヰル・居る」=「ゐ=ウ+イ=ui=wi(母音調和)・猪の形態・連続する形態」+「る=存在が持続する形態」。連続してその場所に滞在すること。
「鄙・ヒナ」は「平でなよやか」の意味構造であるから田園の広がる土地を表現した語。
人類が、厳しい自然環境の中で生き延びるためには、家族や血で繋がった同族集団(うから)を母体とした部族社会へと向かっていったと考えられる。外敵に対峙し狩に成功する為には集団の結束力が必要で、そのためには優れたリーダーの指示に従って行動する必要があった。
この指示命令に必要不可欠なものは情報のシステム・言語である。
食糧確保のために行われる狩の成功こそが、集団の死活を分ける生命線であった。狩りが成功するためには狩の役割分担が必要であった。獲物の発見、状況分析・追跡・追い出し、囲い込み、投槍・挿槍・仕留め・解体・運搬・加工・分配と言った集団の役割分担作業は、指揮者の統率によって、はじめてスムースに行われるのである。
狩の作法や戦術、あるいは共同生活における調整といった重要な項目のみならず、集団と言う社会全体の規則の決定・守らなければ罰則を与えると言う「掟・オキテ」は共同生活を潤滑に、また快適な環境にするための有益な知恵である。
一万年を遡る旧石器時代に言葉は当然使われていたであろう。何故ならばオーストラリアのアボリジニ人の言葉は、その生活様式旧石器時代であったにもかかわらず、非常に高度に発達した言語体(ラング)を駆使して生活していたことが綿密な調査によって判かっているからである。
わが国の縄文草創期の時代を代表する狩猟具は、槍と弓矢である。槍や矢の先端には、石の鏃・ヤジリが使われた。弓・弦(ツル)矢柄(ヤガラ)ともに植物が使われている。縄文人は盛んに弓矢を使って狩猟活動をしていた。
遺物としては煮沸器具である縄文式土器が、竪穴式住居から日用品の雑器類が多くみつかっており、集落も構成していた。また、石器の産地の考察から、縄文時代にも海洋を越える交易があったことも判ってきている。また、死者を埋葬した跡があることから、縄文の人々には初期の宗教 観があったことも確認されている。
従来の歴史書では縄文時代は主に植物採取・狩猟や漁労をして、少人数の集団が移動をしながら暮らしていた素朴な時代と考えられていたが、近年の考古学上の発見により、縄文時代観が大幅に塗り替えられつつある。例えば、1992年から発掘が始まった青森県青森市三内丸山遺跡の調査により、長期間にわたって定住生活をしていたことや、クリ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどを栽培していたことがわかっている。三内丸山遺跡を象徴する巨大木造建築物も発見されている。
ここで、我が国の縄文時代をはるかに遡る時代を覗いてみよう。
人類がアフリカで誕生してから200万年。その間、人類は道具を使って獲物を手に入れることに工夫を凝らして生き抜いてきた。人類の歴史の99%以上は「石器」が主役をつとめる石の時代であった。
日本列島では土器が出現する約1万2千年以前の時代を「旧石器時代」と呼んでいる。旧石器時代の日本列島は氷河期と言われるほど寒冷な気候であったため、現在より海水面が140mも低下していたと考えられている。旧石器時代の人々は、日本列島と大陸が陸地でつながっていたので、大陸からナウマン象やオオツノシカなどの獲物を追いかけて日本列島に渡ってきたと考えられており、新潟県内に残る旧石器時代人の足跡の化石は今のところ約3万年前にさかのぼると推定されている。
考古学は土の中から発見した石のヤジリを手にした時から始まったといわれている。 「矢」の存在は人類にとって非常に大きな問題で、この石器の研究が考古学の基礎研究として今も重要項目になっている。
現在では日本列島に人類が生息していた時期は地質学的に見て、およそ4~5万年前の中期の旧石器文化に遡るとされている。こんな古い時代の人間のことや、言葉の実態について何一つ手掛かりとなる資料は存在しない。言葉がいつ何処で誰がどの様に作り上げたのかという問題は永遠の謎に終わるに違いない。しかしながら、少なくとも縄文時代の遺跡や住居跡から想定される日本人の先祖達の生活ぶりから判断して、現代の和語とはそれほど大きな隔たりはないものと考える。何故ならば言語の変化の歴史を観察すると音韻の変化はかなりの速さで変化するものの、古相の単語の音韻変化はそれほど変化していないからだ。
例えば、人体部位の名称の「目・口・歯・頰・頭・鼻・手・足・踵・腰・腹」などの語は万葉集古事記や、平安時代源氏物語に現れる語と全く同じで、変化していないし、異相の方言も存在していない。

 

 

 

野村玄良・ささ玄の ハテナぶろぐ 『日本語の意味の解』第②回 第1章・ロゴスの探求「さをとめ」とは何か。

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第1章 和語の意味の構造

 この歌は【万葉集・1429・春の雑歌】若宮年魚麻呂の歌である。

 乙女らが かざしのために みやびをの かづらのためと しきませる 国のはたてに 咲きにける 桜の花の にほひはも あなに。【万葉集・1429】

 「をとめ」等の簪(かんざし)にと、「みやびを」(上品で優美な男)の頭に巻く縵(かづら)のためにと、帝のお治めになる、国の隅々に至るまで咲いている、桜の花の輝くばかりの美しさは、ああなんと。

 例えばこの歌の「をとめ」「桜」「咲く」の意味構造がどの様な規範に基づいて組成されているのであろうか。
 『乙女・ヲトメ』の語を手始めに考察をしてみよう。 
 語意を先に述べると、「をとめ・乙女」は「近寄る男を止めて寄せ付けない女・男性を遮断して純潔を守る女・処女であることを守らなければならない女」の意味構造を持つ言葉で「タブー」を意味する古相の言葉である。単に「婚期にある少女」では語の原義を解いてはいない事になる。
 部族社会においては、集団の定める秩序や掟などの約束事は必ず守らなければならない、社会的な必要条件であった。早婚の禁止は優生学的にも生命体の劣性化を防止する必要手段である。「サヲトメ・ヲトメ」はまさに社会集団の力で守らなければならない掟を言葉にしたものであり、男たちに課せられたタブーなのである。
 「乙女」の語構成は「ヲ・男・雄・牡」+「ト・止・留・の語幹・動きをそのまま留める(乙類)」+「メ・牝・雌・女(甲類)」で「男・止・女=男を寄せ付けない+女」の意味構造であることが理解される。「を」は「ヲス・牡・雄」の意で「雄の生殖器」を表す語である。したがって「小さい・ちょっとした」などの意にも用いられる。
 「ヲカス・犯す・侵す・冒す」=「ヲ・雄・男・男根」+「カ・堅固・強固」+「ス・四段」の構成で、タブーや掟を破る男性の犯罪に特定された語意構成になっている。女性は古来、受身で被害者の立場にあり、今日においては女性保護の法整備も行き届き、男たちの淫らな行為を許さない社会になっている。

 「ヲ」は「雄・男の性」の概念を表すが、もう一方の「オ」は「大きい・押す・圧迫・重も・多い」などの語幹の「オ」で「圧迫」を原義とする抽象概念を表す素語である。

 ここに「さをとめ・早乙女」を揶揄した面白い俳句がある。

 【五子稿・来山】 さをとめや 汚れぬものは 歌ばかり
 
 解釈は、純潔の少女の名前で呼ばれているところの「さをとめや」と、矛先に玉(詞の頭・タマ)を突き刺して高々と掲げておいて、「汚れていないものは、サヲトメと言う言葉だけだ」とこき下ろす川柳である。この時代においても、はっきりと「さをとめ」の正確な語意が認識されていたことがこの歌から判る。
 では「さをとめ・早乙女」を解いてみよう。
 「サ」は接頭語では解けないし「神稲」「五月」などの意味はさらにない。何故ならば次の歌があるからだ。
山家集】 いそ菜摘む 海女のさをとめ こころせよ 沖ふく国に 波高くなる。
 田植えをする乙女ばかりが「さをとめ」ではないのである。ここで「沖ふく国」は海神の住む国(わたつみ・海神)の意味で、「沖風が吹いてきて波立ってきた」と海の荒神の動きがただならぬと言っている。純潔の乙女の周辺にいる男たちの不穏な動きを、波に例えて気を揉んでいる歌である。
 本書では一切「接頭語」なるボカシ用語は使用しない。「早乙女」は「サヲ=男性の象徴・男根」+「ト・止・遮断」+「メ・女」と「乙女」よりもさらに即物的な人体語を使った、二音節語を合体させて四音節で一つの意味を作り出した造語なのである。
「サヲ」=「サ・前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」+「ヲ・雄・牡・男」=「サヲ=男根・棹・竿」の構成である。この事実から「さを・男根」が隠語ではないことを和語の意味構造が明解に証明しているのである。
 では何故「サ」が「前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」の抽象概念を持っているのか、それは次の「桜」の「サ」の意味に注目していただきたい。

「桜・サクラ」=「サ・前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」+「ク・動きを表す辞・四段・終止形」=「サク・裂く=咲く」+「ラ・同じものの集合体でまとまりのある形状を表す」の構成である。つまりつぼみの状態で繋がっていた花びらを「裂き」=「咲き」となるのである。
 薄い紙・布・樹皮・革・葉などを「引き裂く」とどんな形状になるか。
 「サキ(連用形・名詞化語)」の類語で検証してみよう。
 「サキ=裂き・咲き・割き・先・埼・崎・岬」これらの語で共通する意味は何か。それは「形状」において全ての語が「先端が突き出た尖りを持った形」とその形状を生み出す基本の所作を表している。そして、その尖り方は「前方斜め下方向にやや下がった姿の、笹の葉とかヤジリ(鏃)・ナイフ・刀などの形状」で「男根」もまさに先端部分が同形の「サ・前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」+「ヲ・牡・男」であることがわかる。
 「サ」のつく語をもっと広く見てみよう。
 「サ・矢の古語」「サカ・坂・境・界」=「サ・前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」+「カ・堅固・強固」の構成で「逆らふ」の「サカ」は境界線で敵と対峙する対決の刃物の先端の形状を表す語である。昔から境界線は「サカモギ・逆茂木=敵の侵入に備えてトゲのある木の枝を立て並べ結び合わせて作った柵(サク・逆く)」などで外からの侵略に対してこの「境=サ+カヒ(防御)」を死守したのである。
 地名で「サカ」のつく土地は地形が「サ・前方斜め下方向へ進む意」であるばかりではなく、部族間の境界線のホットラインで火花を散らした歴史を物語る場所であって、地形が平地であっても「サカ」なのである。
「サカ」の類語現象に対し、これを私は「カル現象(後述)」と呼んでいる。私がこれを発見する遥か以前に、折口学(折口信夫)を継承した高崎正秀博士はすでに【八心式・ヤゴコロシキ】(一語で幾通りもの意義を発する、和語の特徴を捉えた“底語”の存在とその働きを説いた理論[著書・文学以前・桜楓社])の学説をうち立ておられたのである。(詳細は後述)
 
「サクラ」は「裂く=咲く」+「ラ」=「咲きたるモノが寄り集まりて一つのまとまりのある形状を構成したるもの」の意であるから、桜は菊や薔薇のように唯、一輪の花を一つ一つ鑑賞するのではなく、一斉に咲き誇る花の巨大な団塊の連なりを「咲きまくりたるものの群がり」=「咲く・等(ラ)=桜」として捉え、「連体形」+「ラ・群がり」で名詞化されたところに、命名をした先祖の感動の大きさが表れており、その心が伝わってくるのである。
 漢字は単に中国からの借り物に過ぎない。語意の解釈をする際に大切なことは、外来輸入した漢字という中国人の抽象概念でもって、最初から日本古来の言葉の意味を考えてはならないことである。
 「桜」の字を見て意味を考えると、和語の「サクラ」が単なる固有名詞で、特定の樹木を表す単なる「恣意的な音声記号」であると錯覚し、和語の意味構造を理解することすら出来なくなってしまうのである。
 言語学の一番危険な落とし穴は実はこれなのである。日本語のルーツを模索する試みが学界で様々にあるが、何れも再考さるべき問題点を背負っているように思われてならない。

 一口に「日本語」と言っても外来の言葉が満ち溢れていて、どこまでが本源的な日本民族の言葉であるのか、きちんとふるいをかけないとこれまた判断を過つこととなる。
 本書においては日本民族固有の言語を「和語」と表現する。勿論日本民族の原初語が何時頃どのような経緯で成し遂げられたか、その実態なぞ誰にもわかる事柄ではないのだが、仮に「原日本語」と呼べるようなこの日本列島に定住していた人々が共通的にその言葉を理解し、自ら自在に駆使し得たところの言語を「和語」と呼ぶだけのことなのである。

 万葉集の歌言葉の中にもそんなに多くはないが、外来語が混じっている。
 例えば【万葉集・3327】 衣手(ころもで)を あしげの馬の いなき声 心あれかも 常ゆ異(け)に鳴く。 

 この歌で「馬・うま(むま)」は外来語である。また「駒・こま」も和語ではない。一体どの様にしてそれを判断するのか。その謎解きの鍵を握る「和語の素語」の実態に迫って見よう。

 『言葉の中の遺伝子情報』

 DNAとは、デオキシリボ核酸の頭文字である。細胞の中には核があり、この中には遺伝子DNAが染色体という形で存在している。
 一つの細胞の中に閉じ込められた遺伝子の完全なセットを「ゲノム」と呼んでいる。
 人間のゲノムは三十億からの塩基対(エンキツイ)から成り立っていて、この中に三万種類(国際ヒトゲノム配列決定コンソーシアム二千年発表)の遺伝子がランダムに点在している。
 この遺伝子の本体がDNAであることがわかるまでに長い歴史があった。核酸性物質ということから「核酸」と名付けられたのは十九世紀のことであった。そして、それからなんと五十年も経てからやっと、この「核酸」が遺伝の基本物質であるDNAであることが判ったのである。
 現在ではヒトゲノムの解読に世界規模での激しい競争が展開されている。
 この開発競争の理由は、人間のDNAの構造がわかれば、人体の異常のメカニズムや、脳内の構造・「思考法」など全てが解読でき、病気の早期治療や難病の事前の対策がたてられ、人類に福音がもたらされると考えられているからである。
 そして今述べた人間の「脳内構造・思考法」について、ここにこそ「ロゴス・理性」の存在が秘められているのではなかろうかと私は考えているのである。

 

 


【あ~を】「63素語音義律定義」一覧

「あ=吾・主体・存在する形態・あたし・在る・開く・会ふ・編む」
「い=尖りの形態・射る形態・息・毬・行く・言ふ・怒る・活きる・石・磯・糸・稲」
「う=屈曲した形態・売る・得る・窺ふ・浮く・失せる・嘘・産む」
「え=選ばれた形態・選ぶ・蝦・荏原」
「お=押す形態・織る・置く押す・抑へ・負ふ・重・落」
「か=固い・強固な形態・刈る・駆る・軽・枯・涸」
「き=(甲類)切る・消る・見えない形態・気・着る・聞く・きすむ」
「き=(乙類)喰い込んだ形態・木(く/ku/+い/i/=/kwi/)母音調和語」
「く=口の作動形態・繰る・くくむ・喰ふ・汲む」
「け=(甲類)異様な形態(甲類)・化・けや」
「け=(乙類)消えた形態(き/ki/+え/e/=/kye/)母音調和語・毛(はげるもの)」
「こ=(甲類)子の形態・子・娘・児・粉・恋・焦げる」
「こ=(乙類)込める形態(く/ku/+お/o/=/kwo/)母音調和語・凝る・込める・乞ふ」
「さ=斜め下方向へ向かう形態・去る・裂く・刺す・盛り」
「し=下方向の形態・知る・敷く・死す・石」
「す=通過する形態・巣・素・須・する・すく・吸ふ・澄む」
「せ=背の形態・競る・迫る・急く・せめる」
「そ=(甲類)空・十。最上の形態・空・五十(いそ)」
「そ=(乙類)反れた形態(す+お=/swo/)母音調和語・反る・剃る・染める」
「た=手足の形態・立つ・足袋・旅・たける
「ち=(Ⅰ類:チビ系/ti/)小さな形態。塵・父・乳・苺」
「ち=(Ⅱ類:血管系/chi/)血・道」
「つ=(Ⅰ類:指先系/tu/)つまむ・釣る・突く」
「つ=(Ⅱ類:液体系/thu/)津・体液・水の形態・津波・汁・梅雨」
「て=手の形態・寺(手を合わせる+等)」
「と=(甲類)線引きの形態・戸・砥ぐ・隣・虎」
「と=(乙類)止める形態(つ/tu/+お/o/=two)母音調和語・取る・止める・留める」
「な=なよやかな形態・生る・泣く・成す」
「に=柔らかな土・粘土細工の形態・煮る・膠・似る・兄・脂」
「ぬ=ぬるりとした形態・塗る・塗絵・ぬく・ぬすむ・縫ふ」
「ね=見えないところの形態・根・寝・寝・ねずみ・ねたむ」
「の=(甲類)傾斜した土地の形態・野・軒」
「の=(乙類)乗る形態(ぬ/nu/+お/o/=/nwo/)母音調和語・乗る・海苔・糊」
「は=歯・端の形態・橋・箸・挟む・貼る・掃く・這ふ・食む」
「ひ=(甲類)平らな形態日・陽」
「ひ=(乙類)火の形態(ふ/hu/+い/i/=fwi)母音調和語」
「ふ=触れる形態」
「へ=(甲類)減る形態・辺」
「へ=(乙類)経過する形態・経(ひ/hi/+え/e/=/hye/)母音調和語」
「ほ=膨らんで大きくなる形態・頬」
「ま=目の形態」
「み=(甲類)見事な形態・美・御・三」
「み=(乙類)躍動して射る形態・雷・神(む/mu/+い/i/=/mwi/)母音調和語」
「む=躍動の形態」
「め=(甲類)女・雌の形態・めす・召す・女神・めめし」
「め=(乙類)見える形態・目・芽(み/mi/+え/e/=/mye/)母音調和語・恵み」
「も=(甲類)盛り上がった形態・腿」
「も=(乙類)根元の形態(む/mu/+お/o/=/mwo/)母音調和語・元・本」
「や=矢の形態・(い/i/+あ/a/=/ya/)母音調和
「ゆ=弓の形態(い/i/+う/u/=/yu/)母音調和語」
「え(ヤ行のえ)/ye/(い/i/+え/e/=/ye/)母音調和語・枝・江」
「よ=(甲類)尖りで押す形態・弱体化(い/i/+お/o/=/yo/)母音調和語・弱・夜」
「よ=(乙類)性行為の形態(い/i/+を/wo/=/ywo/)母音調和語・善・良・よがる」
「ら=同じものが集合した形態・等」
「り=張り出した形態・尻・鳥・森・盛り」
「る=現在進行中の形態・現在進行形=静止画像で終止形」
「れ=垂れ下がった形態・きれ・濡れ・ひれ・漏れ」
「ろ=(甲類)取り囲まれた形態・炉・室・囲炉裏」
「ろ=(乙類)囲まれて中が詰まった形態(る/ru/+お/o/=/rwo/)・麿・櫓・魯・助詞」
「わ=屈曲した主体・我(う/u/+あ/a/=/wa/)母音調和語」
「ゐ=連続の形態・猪・井・居(う/u/+い/i/=/wi/)母音調和語」
「ゑ=崩れた形態(う/u/+え/e/=/we/)母音調和語・餌・絵」
「を=男の象徴の形態(う/u/+お/o/=/wo/)母音調和語・男・雄・尾・苧・麻・青」

 

野村玄良・ささ玄のブログ版『日本語の意味の解』・第①回 電子本の公開 はじめに

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『日本語の意味の解』

 

 まえがき

 西欧の心身二元論においては、思考やカテゴリー化などの概念形成は心のみが行い、「身体」はそれに従属する低いレベルの価値しか与えられてはいなかった。しかしながら思考や概念形成に働く身体の重要性が認識されて以来、心と身体が対立するという図式だけでは捉えられない「因縁律」が存在する。
 カテゴリー化は概念形成にはたらく認知の様式であるが、和語における言語の身体化された概念は次のカテゴリーに分類することが出来る。
 つまり身体の部位そのものの形態と、それが時間の中で参入される要素が、因縁律を発生させ、因果律の中で新たな条件が動的な方向性を持って連結派生し、ラングの規制枠の中でパロールの力(想像力)によって新たな概念を構造化するのだ。
 つまり和語においては、単語レベル(動詞・名詞)で穏喩・隠喩が形成され、階層的に上位階の「節・文」にリンクしながら多様性を持ってイベントを遂げているのである。問題は単語の形成の「解」こそが情報工学の基礎として明確に把促しなければならない。高度な人工知能の必要条件となるものは「意味の形成規則の解」である。


 遥かな石器時代に獣を追って山野を駆け巡った我々の先祖達が伝え残した言語創生の原理は、太古のままに言語素子である「素語=意味の弁別体」として単語の中に内在されている。
 彼らの人間学的認識が紡ぎ出した「意味要素の核」が、どの部分に、祖先のメッセージとして、どのような言葉の奥深くに刻印されているのか。
 創世期における日本語の構造化の軌跡を辿る唯一の方法は、日本語のあらゆる言語データーに対して部分的ではなく総括的に、言語の本質解明のための新たな原理手法を用いて、思弁の形式化ではなくデーターサイエンスとして、科学的な要素還元主義で解析をすること以外に方法は存在しないのだ。
 
 問題はその手法に全てが依存している。新しい手法は、新しい発想と「言語成立の原理」の発見が必要である。「語の意味」を不問にしたままで、昏睡を貪り続ける時代遅れの言語学を根底から揺さぶって、コペルニクス的転換論で再構築を果たさねばならないのである。
 「語」に何故意味が存在するのか。この「何故」の問いを忘れた学問は存在する意味を失っている。遺伝子工学は「何故遺伝が子に伝わるのか」を細胞の中に存在する「遺伝因子」の構造と働きを明らかにした。遺伝子は情報を伝える因子である。言語の因子を明らかにしなければ情報工学は進化しない。

 実存哲学はヨーロッパ発の哲理ではあるが、インドの大乗思想と、これを受けた空海の「真言思想」こそが西欧の実存の哲理より数百年も前に高密度に展開した東洋の【存在のロゴス】であった
 ロゴスとは「言語科学=意味の定立・意味分析の定立」のことで理知的思考によって得られた世界の存在に対する無矛盾の科学分析の思惟のことである。「意味の記号」をネットですくい取る「インドラの珠網」という「言語体系のネット=曼荼羅」思考こそが東洋のロゴスであり世界の実存を極める哲理である。
 意義と意味の定義を可能とする世界は地平には存在しない。言語の地下階層構造がわからないと意味の定義ができないのである。
 言語の使い方をどのように観察してみたところで、「語の成立」のメカニズムは把促できない。言語使用者の使う言語は「地平」の「述語」という目に見える世界に帰属している。言語の成立、意味の成立の原理大系は「地下階層」の目には見えない「深層部」に「秘蔵」されている。
 空海はこれを「秘密の言語・密言・真言」などと呼称した。これは空海の著書「吽字義.うんじぎ」・「声字実相義.しょうじじっそうぎ」・「即身成仏義」に書かれている。
 
 秘密の場所に隠されていることを「蔵密.ぞうみつ」と言う。その秘密の場所は地平ではなく地下の奥深くに「即身成仏(実存を抽象・アナロゴンのこと)」の姿で鎮座している。それを図式化したものが胎蔵界曼荼羅金剛界曼荼羅である。「即身」とは「身体そのもの」という究極の存在(エンス)のことで「基本認識との出会い」を実現する「実存」のことである。
「ヤ行・ワ行」と古代の乙類の「コソトノモヨロ・キヒミケヘメ」の全てが「母音調和」及び「前母音脱落」語で、その内容は変更されることなく、今日も姿を隠して使われている。この基本事実に対する学的探求が全く行わなかったことによる弊害と損失は、計り知れないものがある。つまり言語と言うものは、その国の巨大な歴史的文化構造体の基礎基盤であるからだ。
 国語学・日本語学は明治以降、欧州言語学ソシュールの誤った記号論に幻惑されて今日に至っている。
 江戸時代に勃興した科学的で正統的な国学探求の流れは維新以降、顧みられることなく、欧米文化の模倣に明け暮れ、明治の後半において大きな崩れを見せた。昭和の敗戦に至って、あらゆるものが疲弊し自尊心をなかば喪失しかけた日本は、伝統文化維持という国の主体性を見失って、遥かな先祖が築き上げた国語体を自らの手で毀損させてしまった。

 外来語の入らない伝統的な日本語の「和語」の特徴は、単体の母音は常に語頭に立ち語中や語尾には数例を除いて、決して使われることはない。この法則は非常に優れた思索と経験からから生まれたもので、混雑を排除する制御機能であり、音声を明確化する音節規定の叡智であった。少し離れた場所でも意味が理解し合える仕組みを構築しているのである。
 人間は世界を解釈する主体『ア・吾』として存在する。人間が他の動物と根本的に異なるところは、身体の周辺を認知し認識することから出発し、やがて周辺の事象から敷延して天空に至る世界像を形成する為に,その身体性と人間学的認識に基づく経験の集積を特定の意味概念として記号化したところにある。人体というコスモスが宇宙の巨大コスモスと同位性を持ち、階層構造を組みたてて一体化している。
 南方熊楠エコロジーの言葉を日本ではじめて使った科学者であり思想家であった。東洋の一元思想である真言密教の哲理を、西洋の二値的思考で分析的に捉え、さらに一元的に捉え直す思考の再編成を曼荼羅の表徴する「一切智」の哲理と理法で行っている。あらゆる次元のコスモスが、「認識」の中に存在することを、言語生成の哲理として空海が抽出した真言の「真実の言語」の波動を、この東洋の科学者は自ら身体で受けとめて理解しているのである。

 意味は意味付け行為によって発生する。意味は静的な事象ばかりではなく事態が推移する状況の中でもイベントスキーマとして概念化し、派生因子を持ったスキーマ―の鋳型として身体性を持つ記号に閉じ込められる。
「ア」は存在する自分自身の総体を「ア:a・吾」の母音音節で表徴したものである。「ア」は自称の人代名詞「吾・ア」から「アル」「アク」「アム」・「アカ」「アキ」アク」:「アサ」「アシ」「アス」「アセ」「アナ」「アニ」「アネ」:「アノ」「アレ」「アソコ」:アチラ」「アナタ」:「アキラカ」「アタタメル」に展開されている。「ア」の覚醒という「認識」から「ア・吾」を機軸にして言葉を階層的に構築して積み上げている。
 二音節結合が基本形になっている和語独自の名詞と動詞の構造は、CV型開音節の音節結合によって、意味概念が構造化されている。だから二音節語は二個の意味の弁別体が結合と言う意味の構造化と言う概念形成原理を明確に示しており要素還元的に意味を分解し更に再構築を保証するのである。

 この意味構築の法則は、父と母の結びから子供が誕生するという、生命体増殖原理からの学習であると考えられる。この結合のシステムの認識が言語構築の基本的な法則性に関与していることは、あらゆるレベル単位の言語記号を観察しても、その接合と融合によってのみ言語が構造化されると言う基本原理があるからだ。日本語はこの結合された語彙と語彙を「の」で「乗せ・伸せる」のである。
 ………この岡の、桜の枝の、下土の、草葉の先の、一しづく………と、名詞を助詞「の」で繋げるだけで情景と対象を描き出すことが可能な言語である。
 言語は部分と部分の結合と融合により新たな派生因子を生産し、新しい付加的な要素を自己増殖しながら全体を構築する。和語においては既に単音節の「素語」自体に「イベントスキーマ」としての動的で派生的な膠着志向因子が存在し、「カル現象」と言う有機的な概念連鎖現象(同音異義語の誕生)が行なわれる。(カル現象・注)
 全体である水は、酸素と水素の原子の結合体であるが、部分である元素が存在しなければ水の存在はあり得ず、また水を説明することも出来ない。
 言語内における元素的な存在は「形態素=単語」ではなく、単語を構成する単音節のスキーマ化された「形態素子=素語」で、和語の音素配列規則とそのネットワークがどのようなカテゴリーを形成し、またそのカテゴリー間の結合原理が、どのような言語組織を構築するのかを説明できなければ、言語の全体を説明することは出来ないし、「語とは何か」の基本説明すらも出来なくなるのである。

 言語の発生は「身体語」の特定化、つまり身体の部位や身体が知覚する感覚器官が基底的な概念を形成して、これが「言語の核」となり、特定した音韻(狭義の)に「意味」が貼りつけられて、「意味素」である「言語の核=素語」が形成され、曼荼羅図の「核分裂」のような爆発が発生して言葉が開始されたことを強く暗示している。言葉は徐々に時間を掛けて創られてきたものではない。一瞬のうちにトップダウンが行われたと考えなければ動詞と名詞と助詞が紡ぎ出す意味とテンスと局面の精緻な変化機能を説明することは絶対に出来ないからだ。

 先進諸国の近未来の文化の中心に据えるべきものは、言語を扱えない数学ではなく、「言語科学哲学」でなければならない。
 現在の人工知能は、人間が設定した枠組みの中を超えることはできない、いわば人工知能設計者の脳の働きと質的な「世界認識」の総合能力の限界を超えることはできないという制約に支配されている。応用・運用は条件の組み合わせで出来るが、人間の着想は因果律を超えた「因縁律」という予測不能の「何か=サムスィング」の未知なる条件参入と言う偶発的な「出会い」に依ってしか「起縁・起想」は起こらない。
 ここに奇想天外と思えるような万葉集の歌がある。

 歌の真意の「解」を」求めるパズルを出したい。つまり「言語の解・カイ」とは何かという課題が歌の向こう側に隠れている。

 万葉集・巻七の 7・7・5・7・7の句で、7・7で始まる非常に珍しいこの歌には、恐しい秘密が「日本語の基本規則」を使って巧妙に隠されている。一体何をこの歌は言おうとしているのか。

1218 黒牛乃海    紅丹穂経    百礒城乃  大宮人四    朝入為良霜
くろうしのうみ くれなゐにほふ ももしきの おほみやひとし あさりすらしも

 これまでの注釈『黒牛の海が、紅に輝いている、(ももしきの)大宮人が、漁をしているらしい』
 
 1.くれなゐにほふ、とはいかなる意味か。
 2.大宮人が、漁をすると、何故に紅色に海が輝くのか。
 3.ありえない情景が歌われているこの歌は、一体何を言わんとしているのか。
 4.黒牛の海などという海はどこにも記録がない。奇っ怪な7句の固有名詞を頭に置く理由を述べよ。

 ■この質問は、誰もが知りたい「不可解な歌の意味」の構成項目を並べたものである。
 ■この歌に対する上記の質問に「人工知能」は正しい回答が出来るか。

 ■筆者の素語理論による解答は下記である。ご一読賜り、ご批判を得たい。

 kurousinoumi ⇒二箇所の母音連続の 前母音 /o/ を脱落させると 「kurusinumi (クル・シヌ・ミ)苦る・死ぬ・身」と強烈な「悶絶寸前の身体」の意味内容の言葉が浮かび上がる。この歌は、明らかに恨みを込めた隠喩の歌で、朝廷の役人共の「大宮人」を心から憎んだ「裏読みの歌」である。
 
 くろうしのうみ= 苦る・死ぬ・身の名前の海。紅の枕詞。血の海・苦しみの海の意。
 くれないにほふ=隠喩で「真っ赤な血の匂い」がするその海で、
 ももしきの大宮人し=大勢で組織化された官僚どもが、
 あさりすらしも=漁・あさりであるが、「あ・自分」+「さり・去り」=体を失い、死ぬ意味を籠めて、「死にかかっているらしい」。

 裏読みの通訳

 苦しんで死ぬ身、と言う名前の真っ赤な血の匂いがするその海で、大勢の都の役人共が、今 死にかかっているらしい。

 この歌は、5句で始まるべき歌が7で始まる。この奇っ怪な歌が万葉集に取り込まれている理由は、時代背景に原因がある。平城京の遷都後の、貧困に苦しみ疲弊する民衆の怒りの歌である。
 ◆人工知能が「人間のシタゴコロ=隠喩=悟性」を持ち得ることが出来るか。

 素語理論はこの問題に明確な対応の仕方を提示する。即ち素語分析哲学「言語実存科学」の新しい『素語理論』の提唱である。