野村玄良・第4回 『日本語の意味の解』”日本語の解剖の仕方』”

日 本 語 の 意 味 の 構 造
 


                            野 村 玄 良
                            

 
 序 章

 意味の解析  

 本書は、日本民族固有の和語の意味構造が、どの様に成り立っているのかを、新手法を用いて多面的に考察を加え、その意味的世界の実態を系統的に解き明かそうとするものである。
 これまで、どの辞書にも書かれていなかった、意味の最小音韻レベルである一音節の「形態素=語の最小構成要素」の抽象概念を抽出し、難解で意味不詳とされてきた言葉にも解析の光を当ててみようと考えている。
 意味論については殆ど国語学では取り上げられなかった。その理由は意味を持つ最小単位の形態素に対応する研究や解析が殆ど手をつけられることがなく、未だに放置されたままであるからだ。これは我国の問題だけではなく、例えばアメリカにおける言語学の概論書においてすら「意味論」の章が全く欠落しているのである。
 この現象の最大の理由は「意味」の世界は難解で複雑で取り組みの方法がなかなか見出せないからだ。
 試みに、意味を持つ各階層の意味的記号レベルで「意味」について考察を加えてみよう。例えば「ヤマ・山・yama」の音声表現の、最小レベルは「音素」で、【子音・Y】【母音A】【子音・M】【母音・A】の四個の音韻によって構成されていることが判る。分解すると、ヤの【A】と、マの【A】は全く同じ音韻(アクセントは考慮に入れない)であるにもかかわらず同位性・関連性を表す意味的要素を見出すことは出来ない。また【Y・M】の子音にも意味の存在を見出すことは出来ない。これらの事実から「音韻(音素)」には意味の存在はないと言える。
 では、もう一つ上のレベルである「形態素=単語の構成要素」を考察してみよう。
 「ヤマ」の形態素は「ヤ・YA」と[マ・MA]の二つである。この二つには一体どんな意味があるのか。夫々の形態素の意味と、二つの形態素が結合しなければならない理由を明確に説明しなければ「意味論」を説き起こすことは出来ないのだ。ではどの様にしてこの難問に手をつけるのか、問題は深刻である。
 だから、我国における意味論は、次のレベルである「語=単語」の「統語論」からいきなり立ち上げて「表現形式」を主にして、「意味内容」は付随的に取り扱うのである。言語学も科学であり真理の追究が究極の目的である筈だが、それほどまでに「形態素」の世界が手におえないのであろうか。

 和語は「一音節のCV構造」という明解でシンプルな音韻構成の言語である。インドヨーロッパ語族は「音節不定形構造」の言語と言われている。
 奈良時代の音節の特徴は、子音で始まり母音で終わる「カ・ka」「キ・ki」「ク・ku」「ナ・na」「ニ・ni」「ヌ・nu」などは、CV構造の開音節語である。開音節(open syllable)とは母音で音節が終わる語でありまた、CV構造(C=子音・Consonant:V=母音・Vowel)は一つの子音にに一つの母音が続いた形の単純構造の言語である。 
 ところがヨーロッパ語族は、音節構造が一定していない「音節不定形構造の言語」で和語とは根本的に違う構造である。(和語には少数ではあるが方言や幼児語には子音で終わる語もある) 
 「CV」構造の和語とヨーロッパ語との違いは例えて言えばコンピューターの中央演算装置・CPUの使う「基本ソフトOS」の違いと同様の異相が存在していると考えられる。それはちょうどウインドウズのOSとマッキントッシュのOSの異相のようなものである。

 和語の一音節は「形態素」である。そしてその形態素の意味を解き明かす為の重要な鍵が、実は橋本進吉博士の手によって完成された、上代特殊仮名遣の『甲類・乙類』使い分けの分析結果に秘められていたのである。
 この特殊仮名遣の研究は、本居宣長・石塚竜麿らによる歴史的な一連の研究成果を経て橋本進吉博士によって集大成された。
 そしてその流れを継承した大野晋博士の手になる、甲乙二分類表記の古語辞典【古代担当(岩波)】があるが、はからずも、私はこの古語辞典から、甲乙の分類が単なる音韻の相違を表すだけのものではなく、和語の一音節毎にそれぞれ異なった「抽象概念」が明確に附与されている事実を解析の結果、突き止めることが出来たのである。
  甲類・乙類の異相の問題だけではなく全ての一音節語についても、その抽象概念がどのように体系化され位置付けなされているのかを、意味の構造面から日本語の本質を探る試みに挑戦してみようと筆をとった次第である。


第1章 和語の意味の構造

 この歌は【万葉集・1429・春の雑歌】若宮年魚麻呂の歌である。

 乙女らが かざしのために みやびをの かづらのためと しきませる 国のはたてに 咲きにける 桜の花の にほひはも あなに。【万葉集・1429】

 「をとめ」等の簪(かんざし)にと、「みやびを」(上品で優美な男)の頭に巻く縵(かづら)のためにと、帝のお治めになる、国の隅々に至るまで咲いている、桜の花の輝くばかりの美しさは、ああなんと。

 例えばこの歌の「をとめ」「桜」「咲く」の意味構造がどの様な規範に基づいて組成されているのであろうか。
 『乙女・ヲトメ』の語を手始めに考察をしてみよう。 
 語意を先に述べると、「をとめ・乙女」は「近寄る男を止めて寄せ付けない女・男性を遮断して純潔を守る女・処女であることを守らなければならない女」の意味構造を持つ言葉で「タブー」を意味する古相の言葉である。単に「婚期にある少女」では語の原義を解いてはいない事になる。
 部族社会においては、集団の定める秩序や掟などの約束事は必ず守らなければならない、社会的な必要条件であった。早婚の禁止は優生学的にも生命体の劣性化を防止する必要手段である。「サヲトメ・ヲトメ」はまさに社会集団の力で守らなければならない掟を言葉にしたものであり、男たちに課せられたタブーなのである。
 「乙女」の語構成は「ヲ・男・雄・牡」+「ト・止・留・の語幹・動きをそのまま留める(乙類)」+「メ・牝・雌・女(甲類)」で「男・止・女=男を寄せ付けない+女」の意味構造であることが理解される。「を」は「ヲス・牡・雄」の意で「雄の生殖器」を表す語である。したがって「小さい・ちょっとした」などの意にも用いられる。
 「ヲカス・犯す・侵す・冒す」=「ヲ・雄・男・男根」+「カ・堅固・強固」+「ス・四段」の構成で、タブーや掟を破る男性の犯罪に特定された語意構成になっている。女性は古来、受身で被害者の立場にあり、今日においては女性保護の法整備も行き届き、男たちの淫らな行為を許さない社会になっている。

 「ヲ」は「雄・男の性」の概念を表すが、もう一方の「オ」は「大きい・押す・圧迫・重も・多い」などの語幹の「オ」で「圧迫」を原義とする抽象概念を表す素語である。

 ここに「さをとめ・早乙女」を揶揄した面白い俳句がある。

 【五子稿・来山】 さをとめや 汚れぬものは 歌ばかり
 
 解釈は、純潔の少女の名前で呼ばれているところの「さをとめや」と、矛先に玉(詞の頭・タマ)を突き刺して高々と掲げておいて、「汚れていないものは、サヲトメと言う言葉だけだ」とこき下ろす川柳である。この時代においても、はっきりと「さをとめ」の正確な語意が認識されていたことがこの歌から判る。
 では「さをとめ・早乙女」を解いてみよう。
 「サ」は接頭語では解けないし「神稲」「五月」などの意味はさらにない。何故ならば次の歌があるからだ。
山家集】 いそ菜摘む 海女のさをとめ こころせよ 沖ふく国に 波高くなる。
 田植えをする乙女ばかりが「さをとめ」ではないのである。ここで「沖ふく国」は海神の住む国(わたつみ・海神)の意味で、「沖風が吹いてきて波立ってきた」と海の荒神の動きがただならぬと言っている。純潔の乙女の周辺にいる男たちの不穏な動きを、波に例えて気を揉んでいる歌である。
 本書では一切「接頭語」なるボカシ用語は使用しない。「早乙女」は「サヲ=男性の象徴・男根」+「ト・止・遮断」+「メ・女」と「乙女」よりもさらに即物的な人体語を使った、二音節語を合体させて四音節で一つの意味を作り出した造語なのである。
「サヲ」=「サ・前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」+「ヲ・雄・牡・男」=「サヲ=男根・棹・竿」の構成である。この事実から「さを・男根」が隠語ではないことを和語の意味構造が明解に証明しているのである。
 では何故「サ」が「前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」の抽象概念を持っているのか、それは次の「桜」の「サ」の意味に注目していただきたい。

「桜・サクラ」=「サ・前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」+「ク・動きを表す辞・四段・終止形」=「サク・裂く=咲く」+「ラ・同じものの集合体でまとまりのある形状を表す」の構成である。つまりつぼみの状態で繋がっていた花びらを「裂き」=「咲き」となるのである。
 薄い紙・布・樹皮・革・葉などを「引き裂く」とどんな形状になるか。
 「サキ(連用形・名詞化語)」の類語で検証してみよう。
 「サキ=裂き・咲き・割き・先・埼・崎・岬」これらの語で共通する意味は何か。それは「形状」において全ての語が「先端が突き出た尖りを持った形」とその形状を生み出す基本の所作を表している。そして、その尖り方は「前方斜め下方向にやや下がった姿の、笹の葉とかヤジリ(鏃)・ナイフ・刀などの形状」で「男根」もまさに先端部分が同形の「サ・前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」+「ヲ・牡・男」であることがわかる。
 「サ」のつく語をもっと広く見てみよう。
 「サ・矢の古語」「サカ・坂・境・界」=「サ・前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」+「カ・堅固・強固」の構成で「逆らふ」の「サカ」は境界線で敵と対峙する対決の刃物の先端の形状を表す語である。昔から境界線は「サカモギ・逆茂木=敵の侵入に備えてトゲのある木の枝を立て並べ結び合わせて作った柵(サク・逆く)」などで外からの侵略に対してこの「境=サ+カヒ(防御)」を死守したのである。
 地名で「サカ」のつく土地は地形が「サ・前方斜め下方向へ進む意」であるばかりではなく、部族間の境界線のホットラインで火花を散らした歴史を物語る場所であって、地形が平地であっても「サカ」なのである。
「サカ」の類語現象に対し、これを私は「カル現象(後述)」と呼んでいる。私がこれを発見する遥か以前に、折口学(折口信夫)を継承した高崎正秀博士はすでに【八心式・ヤゴコロシキ】(一語で幾通りもの意義を発する、和語の特徴を捉えた“底語”の存在とその働きを説いた理論[著書・文学以前・桜楓社])の学説をうち立ておられたのである。(詳細は後述)
 
「サクラ」は「裂く=咲く」+「ラ」=「咲きたるモノが寄り集まりて一つのまとまりのある形状を構成したるもの」の意であるから、桜は菊や薔薇のように唯、一輪の花を一つ一つ鑑賞するのではなく、一斉に咲き誇る花の巨大な団塊の連なりを「咲きまくりたるものの群がり」=「咲く・等(ラ)=桜」として捉え、「連体形」+「ラ・群がり」で名詞化されたところに、命名をした先祖の感動の大きさが表れており、その心が伝わってくるのである。
 漢字は単に中国からの借り物に過ぎない。語意の解釈をする際に大切なことは、外来輸入した漢字という中国人の抽象概念でもって、最初から日本古来の言葉の意味を考えてはならないことである。
 「桜」の字を見て意味を考えると、和語の「サクラ」が単なる固有名詞で、特定の樹木を表す単なる「恣意的な音声記号」であると錯覚し、和語の意味構造を理解することすら出来なくなってしまうのである。
 言語学の一番危険な落とし穴は実はこれなのである。日本語のルーツを模索する試みが学界で様々にあるが、何れも再考さるべき問題点を背負っているように思われてならない。

 一口に「日本語」と言っても外来の言葉が満ち溢れていて、どこまでが本源的な日本民族の言葉であるのか、きちんとふるいをかけないとこれまた判断を過つこととなる。
 本書においては日本民族固有の言語を「和語」と表現する。勿論日本民族の原初語が何時頃どのような経緯で成し遂げられたか、その実態なぞ誰にもわかる事柄ではないのだが、仮に「原日本語」と呼べるようなこの日本列島に定住していた人々が共通的にその言葉を理解し、自ら自在に駆使し得たところの言語を「和語」と呼ぶだけのことなのである。

 万葉集の歌言葉の中にもそんなに多くはないが、外来語が混じっている。
 例えば【万葉集・3327】 衣手(ころもで)を あしげの馬の いなき声 心あれかも 常ゆ異(け)に鳴く。 

 この歌で「馬・うま(むま)」は外来語である。また「駒・こま」も和語ではない。一体どの様にしてそれを判断するのか。その謎解きの鍵を握る「和語の素語」の実態に迫って見よう。

 『言葉の中の遺伝子情報』

 DNAとは、デオキシリボ核酸の頭文字である。細胞の中には核があり、この中には遺伝子DNAが染色体という形で存在している。
 一つの細胞の中に閉じ込められた遺伝子の完全なセットを「ゲノム」と呼んでいる。
 人間のゲノムは三十億からの塩基対(エンキツイ)から成り立っていて、この中に三万種類(国際ヒトゲノム配列決定コンソーシアム二千年発表)の遺伝子がランダムに点在している。
 この遺伝子の本体がDNAであることがわかるまでに長い歴史があった。核酸性物質ということから「核酸」と名付けられたのは十九世紀のことであった。そして、それからなんと五十年も経てからやっと、この「核酸」が遺伝の基本物質であるDNAであることが判ったのである。
 現在ではヒトゲノムの解読に世界規模での激しい競争が展開されている。
 この開発競争の理由は、人間のDNAの構造がわかれば、人体の異常のメカニズムや、脳内の構造・「思考法」など全てが解読でき、病気の早期治療や難病の事前の対策がたてられ、人類に福音がもたらされると考えられているからである。
 そして今述べた人間の「脳内構造・思考法」について、ここにこそ「ロゴス・理性」の存在が秘められているのではなかろうかと私は考えているのである。

 『言語とは』
 
少しだけ難しくなるが、「言語」とは何かを考える最初の段階で二つの異なる意見が存在する。
 その一つは、言語の実態は人間の脳内に存在し、それをロゴス(理性)と呼び、この理性の働きで実存する世界の森羅万象を秩序立てたり体系化したりする。
 そしてこの体系化されたものをやがて「分別」と言う仕分整理が徐々に進められ、本来的にはこの世の実世界は混沌とした連続の「カオス」であるのだが、これらを人間は、恣意的(勝手気ままに)に切断し分節して「非連続の形式」を形成する、これを「コスモス」と呼ぶ。勿論この恣意的にコスモスを成立せしめたのは遥か太古のもはや誰も知り得る術のない遥かな昔の我々の先祖である。
 このコスモスが言語の成立基盤であり、脳内にあるロゴスの顕在化即ち、脳内の遺伝子情報に秘められた思考・類推のメカニズムと一体化して「ラング・言語」を形成するのである。
 この「言葉」と「思考」は本来別々の物である、と考えるこの意見は、言葉がなくても知覚・直感・とっさの判断・推測などが可能であるから、との考え方によるものである。
 そしてもう一つの意見は「思考」は「言葉」によってのみ組み立てられ論理化される、と言う意見である。どちらが正しいのか現段階では答えを出すことは困難である、ヒトゲノムの解読を待ちたい。
 科学の分野においては、この生命科学とコンピューターサイエンスが新時代の牽引役を担って目覚ましい進化を遂げつつある
 一方大きく目を転じて、言語学の一分野である日本語学、これを「国語学」と呼んでいるのだが、当然のことながらこの分野も言語のメカニズムや意味的世界の真理を追究する科学分野であり、目覚ましい研究の進展・成果が求められてきた。
 だが、残念ながら意味分野の研究においては「形態素」レベルでの研究が未だに手付かずの状態にある。
 この原因は、ソシュール言語学理論の「恣意性」の解釈にある。
 即ち、ソシュールの記号理論における最も重要なテーゼである「言語記号の持つ恣意性」という特性をめぐる解釈について「事物と言葉との間には何ら必然的な結びつきは無い」と言う意味に曲解し『言語は恣意的なものだ』と考えてしまったことによる。(本書巻末の〈参考〉丸山圭三博士著を参照)
 この事によって「形態素=単語を構成する要素」の研究を、なんということであろう、積極的に放棄したまま今日に至っているのである。 
 「意味論」には三つのレベルがあるのだが、その中核的な「形態論」を議論しないまま、いきなり「統語論」の「語」から「意味論」を出発させてしまったのである。

ソシュールシーニュ理論」(巻末に学術用語解説参照)
 この理論は難解であるが、しかしこれを避けては通れない。
 【ソシュールの第一原理――記号の恣意性】
 ①『言語記号=シニフィアン』は「モノと名前」の関係ではなく、「概念と音響イメージの結びついたもの」で、この「音響」は単なる物理的な振動ではない。
 ②『概念=シニフィエ
 ソシュールは①言語記号と②概念との関係は「恣意的である」と言う。
 ソシュールは「言語」は「記号・シーニュ」の体系であると説く。記号はシニフィアンシニフィエから成り立っておりこの二つは一枚の紙の様に表裏一体となっていて分離することは出来ない、と考える。
 これを短略的に受け取ってはならないのである。
 この「恣意的に」音声と意味とを一体化せしめたのは我々の感知し得ない太古のご先祖が恣意的に言語としての「記号」を作り上げたのであるが、一旦決定されてしまったこの記号はもはや個人が恣意的に変更したり決定したりすることの出来ない、社会的な規約の中に組み込まれたもので、我々の生活はその枠組みのなかに束縛されているのである。
 だから音声と意味との関係は社会的な規約の中で「附与」されたもので、もはや此れを引き放つことは出来ないし、音声と意味との関係は、成立の当初は恣意的であったのだが、特定の言語集団の中での現実は、『必然』ということになる。
 この事実を取り違えて思い込みをすると「意味論」が前進しないのである。

 『意味論を構築するレベル』

  ①「音韻論:音素(意味を持たない)」
  ②「形態論:形態素(最小の意味を持つ単位)」
  ③「統語論:語(最小の自由形式)」
 このようにそれぞれのレベルで論理を構築し展開させていく

 「音素」は意味を持たないから音韻論では対象外である。だから、最小の単位で意味を持つ「形態素」が意味を構成する基本単位とならなければならない。
 ところがである、驚くべきことに【統語論】の最小の自由形式である『語=それ自体で自立して意味を構成しているもの』のレベルの『語』をもって「意味論の最小単位」と見なして意味論の展開を始めるのである。
 例えば、「文」の構成を考えるとき、まず最初に「形態素」があり形態素同志の組み合せによって「語」の意味を確定しさらにその「語」の意味を積み上げて「句」の意味を得て、さらに「句」の意味を積み上げて「節」をさらに「節」を積み上げて「文」の意味を得る。これが正しい「構成性原理」であるはずだ。
 しかしながら我国における論理展開は最初に検討さるべき「形態素」を無視して「語」から始めるのである。
 この作為的な欠落は一体何を物語っているのであろうか。ここにこそ我国における「意味論」の不毛が隠されているのだ。
 ソシュールの、言語は、記号の体系で、音声と意味との関係には「必然的な結びつきは何もない」このことが恣意的であると言っている。そしてこの「必然性」の意味は『自然法則』に支配されているかどうかということであるから、音声と意味との関係は自然法則には縛られずに全く恣意的にこの世の実態である具体的・物理的連続体の世界に「恣意的に」切り目を入れ「非連続単位」に切り取ったものが「形相」であり「シーニュ・記号」もこの形相に属しているのである。
 従ってこのシーニュ理論は、具体的な言語素材を外界の現実との相関において捉えるのである。
 『言理学』
 しかしこのソシュール理論を引き継ぐプラーグ派と論理を異にするコペンハーゲン学派のルイ・イェルムスレウとウルダルが提唱した『言理学(グロセマティクス・glossematique)』の理論は、純粋に言語実態の内的秩序を整理して、自律体系の樹立を目的としているもので、言葉を厳密な論理体系下において分析記述するというものである。これは極端に抽象的な定義の集積であるが、この論理の結論は端的に言えば「言語は記号ではなく、それを構成する記号素(figura)ないし言語素(glosseme)から成立している」と言う学説なのである。
 言理学の基本的な視点はソシュールの「実質」ではなく「形式」の記述に徹すべしと言うことで、それは言語の奥に内在されている「機能的秩序の解明」でなければならないという、これこそが言葉の普遍性の本質を把握できる唯一の方法であると説いているのである。【言語学の潮流・林栄一・小泉保】より。
 はからずも本書もまさにこの『言理学・グロセマティクス』の「機能的秩序の解明」に近い考え方の「最小単位の一音節の機能」を解析して和語全体の「秩序」を解明しようとするものである。


 第二章 音声と意味との関係

 一 『日本語のDNA』

 人体語の「頭」を「カシラ・カウベ・アタマ・カミ・カウブリ・オツム」などと言う。
 これらの言葉は勝っ手気まま(恣意的)に名付けられた結果に依るもので、互いに連脈の無い単なる「音声」の羅列に過ぎないものなのだろうか。
 それとも、例えば「カ・シ・ラ」の各一音節毎に意味が存在していて、その意味と意味との結合の結果、夫々の語意を温存し活かしたまま「頭」の意味を構築しているのか。
 つまり「カ」の意味と「シ」の意味と「ラ」の意味が「文の組み合わせ方の法則」に従うならば、必然的に「人体の頭部」を表現する言葉になってしまうという、語構成(造語のメカニズム)の因果律が存在しているのかどうかと言うことである。
 当然のことながら、言葉は抽象概念の「意味」を「音声」に貼り付けて表した人間の文化的な意思表示の信号である。
 人間は他人や家族と意思をやりとりする道具として、その民族が独自に定めた様々な音声の形態や区切り(音韻)にそれぞれに特定された「意味と役割」を附与して言語機能を発揮させ社会を動かして来た。
 もちろん「音声」に意味を「附与」したのはその言葉を使用する民族集団の祖先であることは疑う余地はない。重要なことは、民族が違えば『附与』の実態や方式が基本的に異なることは当然のことである。
 インド・ヨーロッパ語族の言語と和語を比較して単語の類似性を吟味する、などと言った愚挙は避けなければならないのである。

 『附与』を考察する

 言語の意味を解析する方法は「形態素(素語と呼ぶ)」のレベルから出発する必要があることをこれまでに述べてきた。最小単位のラングでこれ以上意味的に分解できない究極の所まで分解して取り出す方法である。
 例えば「鏡」は「カ+ガ+ミ」であり、「屈み」も「カ+ガ+ミ」である。
 英語では、鏡は【mirror】であり「屈み」は【bend down】である。これを見れば両者の意味構成のシステムに大きな相違があることが理解される。日本語は「kagami」と言うラングのレベルにおいて「同一」のもが、パロールという具体的レベルにおいてバリエーションを持つ。これを私は「カル現象」と呼んでいる。
 鏡を「キョウ」と漢音読みをして「望遠鏡」の語がある。しかしこれは本来の日本語(和語)ではない。ボ・ウ・エ・ン・キ・ョ・ウ、にばらばらに分解してみても、これらの「ボ」にも「ウ」にも「エ」や「ン・キ・ヨ・ウ」などのどの音節にも、意味的に「遠くをのぞき見る道具」を表さなければならないという音声と意味との制約関係は見当たらない。


 『和語』の本質

 さてここから、和語の核心部分に入る。
 『和語』の意味の最小単位(日本語における形態素)は「一音節の音韻」=「形態素=素語」であり、そこに言葉の遺伝子情報が書き込まれている、などと言ったら人々はきっと驚くに違いない。
 それはちょうどデオキシボ核酸に遺伝子の情報が書き込まれていると言う言葉を最初に耳にした時と同じように。
 しかしこの思い込みを解きほぐし疑心を取り除くには時間がかかる。しばらく辛抱願ってこの論理展開に偽りがあるかどうか凝視して頂きたい。

 それでは「カ・ガ・ミ」の音韻が「鏡」の「意味」を表さなければならない「一音節の音声と意味」との間に制約関係が存在するのかどうか「和語の本質」に迫ってみよう。

二 日本語の『本質』

 『鏡・かがみ』の音声と意味との関係を考察してみよう。
 「鏡・カガミ」と「屈み・カガミ」は全く同じ音節構造である。しかし文法上では鏡は名詞であり品物の名前を表す語で活用しない。
 一方「屈み」は「カガ」の語幹に連用形「ミ」がついた「動詞」で、背中を丸めて前に屈曲する人の姿とその行動の状態を表す語で、この二つの語は全く異なった使われ方をする別語である。
 ところが実は「鏡」は「屈み」の語から派生して「名詞化」した語なのである。この理由を証明する為には、一音節のそれぞれの語をまず解析する必要がある。

 和語の「カ」にはどんな意味があるのであろうか。「カ」の意味は辞書を引くと ①接頭語で多くは形容詞の上に添えて。語調を強め、又は整えるもの。
  「――(香)青なる」「――(迦)ぐろき髪」 ②接尾語「すみ―」「あり―」 ③係助詞 ④代名詞「彼」 などと記載されている。しかしいくらこれらを眺めて考えぬいても「カ」の意味を割り出すことは困難である。 
 
 『隠された意味を取り出す』

 一音節語(素語=形態素)を解き明かすには、ツール(道具)が必要になる。道具がなければ何も見えてこないのである。デオキシリボ核酸の構造を見るには顕微鏡が必要な様に。
 小道具として【キ・サ・シ・ス・ツ・ヒ・ミ・ム・ラ・リ・ル・レ・ロ】を検証する語の下につけてみて、類似の意味形態がどのように構成されているのかを対比分析すればおのずから「隠された意味」が浮かび上がってくる。(後述[ル]の項をご参照)

 『カ』の意味を小道具で検証してみよう。
 あらかじめ、「堅し」と言う言葉から「カ」=「堅固・強固」の概念を持った語と想定して「カ」を用いた語を対比分析してこの解釈が妥当かどうかを調べてみよう。
「カキ・蛎・垣」=「カ・堅固・強固」+「キ・取りつき食い込む(乙類・キの意味は既に検証済み)」の構成である。蛎は岩などに強固に取りついて手で取ろうとしても簡単には剥がせない。垣は垣根とも言うように土の中に強固に食い込ませてあるから防護の役割を果たすことが出来る。蛎も垣も同じ意味の「強固+取りつき食い込む」を表す語である。
 「カサ・笠」=「カ・堅固・強固」+「サ・前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」の構成である。こうもり傘でも菅笠でも一定の強度を持ち、前方斜め下方向へ進む傾斜があり、笹の葉形の様に先が尖った形に出来あがっている。
 「カシ・樫」=「カ・堅固・強固」+「シ・下・棒状」の構成である。
 「カシ・牁(船を繋ぎとめる杭・もやい杭)」=「カ・堅固・強固」+「シ・下・棒状」の構成である。
 「カス・粕」=「カ・堅固・強固」+「ス・抵抗なく通過」の構成である。抵抗なく通過したものは「液体の酒」である。つまり、もろみを麻袋に入れて強力に圧をかけて酒が「ス・通過」したものが「カス」で水分のないカスカスの値打ちのない物である。
 「カツ・勝つ」=「カ・堅固・強固」+「ツ・四段」の構成である。崩れは無く堅固・強固な状態を保つ意。
 「カヒ・貝・卵・飼ひ・買ひ・蚕」=「カ・堅固・強固」+「ヒ・四段」の構成である。堅固・強固にする。廻りを固く閉じて防御する意。(詳細は後述)
 「カミ・神」=「カ・堅固・強固」+「ミ・身(乙類)」の構成である。堅固にして強固なるものの意。(詳細後述)
 「カム・噛む」=「カ・堅固・強固」+「ム・四段(甲類)」の構成である。上下の歯で強固に挟み砕く意。
 「カラ・殻」=「カ・堅固・強固」+「ラ・同一物が寄り集まって出来た集合体」の構成である。

 
『カル』現象

 「カル=刈る・枯る・固る・軽る」=「カ・堅固・強固」+「ル・四段」の構成である。
 例えば、草を固い刃物の「カマ・鎌」で「刈る」とやがて草は水分が蒸発し、「枯れる=枯る」状態になる。そして時間が経過すると、乾燥して「固くなる=堅る」そして持ち上げてみると「軽る・カル」になっている。これを私は「カル現象」と命名する。「カル」というラングが様々なバリエーションを広げていることが理解される。この現象を見て「音声と意味との関係は恣意的である」などと言うのは妥当ではない。
 この様に日本語はかなり理屈ぽい言葉で、基本の「カ=堅固・強固」+「ル」の意味構造を安定的に保持した状態で、意味を連鎖的に拡張して展開させている事が判る。
 日本語の発生の草創期に思いを馳せる時、この思慮的に意味を多義に派生せしめて八方に広げていく「カル現象」は我国特有の言語形態で他にも同様に連鎖展開する「サ」「ホ」「マ」など幾つもあり、日本語の本質を示唆する言葉の「遺伝子情報」の一つとも言えよう。
 日本語の「源流」を考察する時にはこの特質を考慮に入れて正確な言語対比をすべきものと考える。
 「カル」はさらにもう一つの様相を連鎖展開させている。
「カル=駈る・狩る・借る」の語を考察してみよう
 「駈る(追い立てる意)」=「カ・堅固・強固」+「ル」の構成で、「カ」の状況にあるのは獲物を追う人間で、「チカラ=力」を出しっぱなしにしている状態を示す語である。筋肉に力を入れると身体が「固=カ」になる。「アカ・赤」は「ア・吾」+「カ・堅固・強固」の構成語で力むと顔が赤らむ。だから活用語の「あかり・あかる」が派生して存在するのである。「赤ん坊・赤ちゃん」は力いっぱい泣いて自分の身体を赤信号にして母親の注意を引き付けているのである。
 「チカラ」は何故か漢字で「力」の文字を使う。擬音語で「カチカチ・カンカン・カラカラ・カタカタ・カリカリ」など石や金属などが触れ合った時に発する音の印象が「カ・kwa」「カ・ka」であったと考えられる。
 石器時代は人類の歴史の中においては殆どであると言っても過言ではない。鉄を手に入れてからの年数はたかだか三千年である。永い永い石の時代に言葉が作られたことを忘れてはならないのである。
 話がそれたが、獲物を「石持て追う」姿が原始の「駈り・狩り」であった。
 稲を刈るは「米という獲物・収穫物」を石の手鎌で「カル」のであり「狩り・駈り・刈り」は意味的に連鎖した語で同じ範疇の語彙であることが理解できよう。
 また「借り」は、これも「カ・堅固・強固」+「リ」の構成である。人の所有権に対して「力」を出して強固に一時的に自分の自由にさせてもらうことで、「借り」の基本概念は自分が強固であることを誇示しなければ、他人や銀行は、簡単に物や金を貸してはくれないと言う相互の力関係を示す言葉である。
 社会哲学的とも言える「信用創造」の初発の原理原則を示す言葉なのである。
「カ」が堅固・強固を表す意味を持つことはまだいくらでもその証拠を山のよに積み上げることが出来る。     (「カ」に付いての詳細説明は後述を参照)
 
 さて話を『鏡』に戻すと、「カガミ=屈み・鏡」は「カ・堅固・強固」+「ガ=堅固・強固な状態には至らない、中途半端なガサガサ・ガラガラなどの様に少し障りのある不完全な堅さや、力が少し足りない状態を表す濁音語」+「ミ・四段」の構成である。 
  「カミ=力を入れて身体を硬直する・上顎と下顎に力を入れて噛み」ではなく「ガミ」であるから「少しだけ身体に力が入った状態」を表す語である。だから「前かがみ」になるのは、人は後へ「かがむ」ことなど出来ないから「かがむ・かがみ」で「身体が少しだけ固くした状態で前方へ屈曲した姿勢」を表わした語である。

『ガ+ミ・ム(甲類)』の用例は「あがむ・崇む」「いがむ・怒む」「おがむ・拝む」「しがむ」「せがむ」「とがむ・咎む」「ながむ・眺む」「ひがむ・僻む」などは全て「濁音」で人体の動きや体形に、力の入り具合がやや抑え気味にした感じの表現となっていることが判る。これらの語は何れも「前方へ身体が屈曲した状態」の意を含む言葉であることが理解できよう。
 「鏡」が「屈み」から派生した理由は「水鏡」に対して身体を「カガメテ・屈めて」覗き込んでいる姿なのである。
 大陸から錫と銅を溶かして     「で」削除              で          作られた鏡が渡来する前は勿論のこと手鏡の無い場合は、器(ウツワ)にいれた水に顔を映して「水鏡」として利用していた。何故そんなことが判るのかと言えば「ウツハ・器」「ウツル・映る」の言葉があるからである。
 「ウツハ」の語を検証してみよう。
 「ウツハ・器」=「ウ・∩形・屈曲した形状」+「ツ・水」+「ハ・張(張リの語幹)・端」の構成である。「ウ・∩形」は湾曲した器の形状を表す語である。
 「ウ」の用例・「浮く=湾曲した形状の物(お椀・丼・舟)などは水に浮く」「畝・ウネ=土を湾曲に盛り上げたもの」「浦・ウラ=浜が湾曲している」「瓜=湾曲して盛り上がっている物」「潤む・ウル・ムの語幹=湾曲した物体の表面を覆う」「うれ・末(植物の成長する先端・梢)=柔かな若い枝葉であるから湾曲している」「うろ・洞=内部が湾曲していてぐるりが岩や土で取り囲まれた空間」「頷く・ウナヅク=ウナジ(首筋の後)を湾曲する動作」「鰻・ウナギ=体を湾曲させてなぐ動きをするもの」「うたた寝=身体を盾(タタ=盾)とみなして、体が前方に湾曲する姿で寝る=防護の盾が湾曲した=自失の状態を表現する語。だから「うたた」の語意は「湾曲した盾・防御が崩れた形・自失の状態」であるから、うたた寝をすると寝首を取られてしまったり、風邪を引いたりするから注意が必要である。

 こんどは「ツ」を検証する。「ツ」は液体の総称「水・体液・水域・潮水」のことである。「体液が基本で液体を表す=ツ・唾・血・乳(古くはツ音)」詳細は「ツ」の項を参照。
 「うつる・映る」=「ウ・∩形・屈曲した形状」+「ツ・水」+「ル・四段」の構成である。つまり身体を「屈み・カガミ」+「ウツハ・器(水を張るもの=うつはもの)」+「ウツル・水の張ってある方向に身体を湾曲すると自分の顔が映る」。この様に「カガミ」「ウツル」の意味は明解に解読できる。
 「うつそみ」「空蝉・ウツセミ」の新解釈については後編「ウ」をご参照。

  『音声と音韻の違い』

 「音韻・オンイン」の語についてその意味をはっきりさせておかねばならない。
 人が声帯を振動させることにより空気を媒体として音波が空中を伝わり耳で感知できる、その波動を「音韻」と言うが、狭義の意味解釈においては「音韻」に対する概念として、「心理的・観念的要素」の存在を無視した、一回毎に発音される物理的な音そのものであると考える。
 一方、広義の「音韻」は人が発音できる音の中から、有限の数の音を選んで、言葉として相互の意思疎通の用具として使っているその「音の夫々の違いを系統的に調べて物理的な音の単位を規定したもの」これがつまり広義の「音韻・音素」と言うのである。
 つまりこのことは、狭義の「音韻」は単に音の単位を規定しただけの物理的な音声であり「意味」の介在はないと言っているのだ。


 和語の広義の音韻について見てみよう。一音節【サ・SA】について言えば、【S】の子音(音韻)にも【A】の母音にも何らの「心理的・観念的要素」は附与されていない。しかし母音の【A】だけを切り離すことがもし可能であるとしたならば【A】は「ア」の独立した一音節に変貌し「吾・自分・自我」の意味を附与された「素語」となる。しかし「サ・SA」は和語においては既に遥かな古代において我々の先祖と言える人々の社会集団の中で「サ」の音声に対して「前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」の心理的・観念的要素を附与しており、それはちょうど一枚の紙のように表裏一体になってしまっているので、片一方を取外そうとしても全く不可能である。
 だから今日「サ」を個人的にそして恣意的に「円形」の意味に転換させようと試みてもそれは社会が受け入れない限り無駄なことであるし、その望みは馬鹿げた望みと言うことで社会的に容認される事柄ではない。
  音韻と意味との関係が言葉の最小単位である一音節の音韻である「アイウエオ……」四十七音と古語十三音、及び濁音全てに夫々異なる概念が特定されているのである。しかし例外があり、「辞=助詞・助動詞」には「働き」と「働きの概念」があるが意味(シニフィエ)はない。この「辞」の働きの研究は充実されているが【辞】の本源的な観念は脳内にある「ロゴス」によるものかもしれない。この意味からもヒトゲノムの解読が待たれるのである。
 和語では音節が異なれば「語意」も異なるのはごく当たり前である。しかしながらこの事実を、音韻と意味との関係は「恣意的」であるから「一音節」の意味の領域に入ることは「意味がない」と唱える一部の国語学者にとっては、日本語の本質が全く理解し得ないこととなる。

 『言葉の深層真理』

 ロゴスという高次元の能力は「グレートサムシィング」の存在を信じたくなる程のレベルの高い脳内に存在する天与の理性である。前に述べたがこれをコンピューターに例えるなら「CPU・セントラル・プロセッシング・ユニット・中央演算処理装置」と呼ばれている計算機に組み込まれた基本ソフト・OSと同じ意味合いを持ち「脳内にあるロゴス」が言語と一体になって音声を操って仕事をするように、このCPUも様々なソフトを操って仕事を処理するのとよく似ている。
 人間はこのロゴスの働きによってカオスであるこの世の現実世界の事象を、整理され秩序立てられた思推(理性)に基づいて言語化されるのだが、言語を構成する単位的要素として「語彙」が絶対的に必要となる。そしてこの初発の語彙を産み出す為の要因は脳内に蓄積された体験や遺伝情報の中に存在する理性のメカニカルな動機によって、個別的に語彙の選択が成し遂げられていくものと考えられる。しかし、その選択は無制限に自由(恣意的)ではなく一定の枠組みの中で無機的ではなく有機的に進行するものと思われる。この、一定の枠組みの違いが民族毎に異なり、多様な言語地図を地球上に描いているのである。
 日本語の「枠組み」は「CV」構造と言う一音節の枠の中に意味(抽象概念)を附与しその「CV形態素=素語」の様々な組み合わせによって語彙群を構築したのである。
 和語と近隣諸国との言語比較は「形態素」と「形態素」からの出発でなければ意味をなさないことは明らかである。